『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その25

その24(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181130/1543503856)の続き。





五月、與韓信倶東。蕭何留守蜀。
王進兵襲雍王章邯、敗走廢丘、令將軍樊噲圍之。王遂東。
田榮怨項羽不肯王己、又不令市徙膠東。市畏楚、亡之國。
六月、田榮殺市、自立為齊王、而撃田都。都亡走楚。田榮與彭越將軍印綬、令反徇梁地。
越者、昌邑人也。初少年相聚百餘人、請越為長。與期會、十餘人後至。越曰、請斬最後至一人。衆皆笑曰、何至如是。越遂斬之。立約束而盟。徒屬皆驚而不敢仰視。後衆萬餘人在鉅野中無所屬、乃受榮印綬、撃殺濟北王安。榮遂并三齊之地。
遼東王韓廣不肯徙之國、故燕王臧荼殺廣、并其地。
塞王忻・翟王翳來降。
項王殺韓王成。以張良從漢入秦故也。以故呉令鄭昌為韓王、距漢。
張良項羽書曰、漢失職之蜀、欲得關中。如約則止、不敢反也。又以齊反書遺羽曰、齊欲滅楚國。羽以故不南而北撃齊兵。
九江王稱疾、遣四千人助楚。
是歳實乙未也。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第二)

韓信は三秦を討ち、すぐに三秦すなわち関中をあらかた奪い返した。章邯は反抗を続けたが籠城、他の王は劉邦に降伏した。2カ月かそこらで決着を付けた事になる。




また、斉では田栄が、項羽の領土内(梁)では彭越が項羽に背いて項羽が立てた王を退け、燕でも同様に臧荼が燕を統一する。




その一方、項羽は韓王を殺す。この韓王成は張良の本来の君主であるが、その張良の動向から劉邦寄りの王と項羽に思われていたという。そして代わりに自分と関係の深い呉県の長官を王にするという露骨な人事。



張良はこれで完全に劉邦の臣下となったと言っていいだろう。




項羽劉邦の進出が関中で止まるという張良の甘言を信じて斉の田栄討伐に向かい(斉は項羽の叔父項梁の仇である)、項梁・項羽の軍の中でもしばしば名前が出てきていた大将である九江王英布(黥布)は項羽に対し不服従の態度を示しだす。




項羽体制は早くも解体の危機であった。