『史記』項羽本紀を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180819/1534604611)の続き。





當是時、秦嘉已立景駒為楚王、軍彭城東、欲距項梁。
項梁謂軍吏曰「陳王先首事、戰不利、未聞所在。今秦嘉倍陳王而立景駒、逆無道。」乃進兵撃秦嘉。秦嘉軍敗走、追之至胡陵。嘉還戰一日、嘉死、軍降。景駒走死梁地。
項梁已并秦嘉軍、軍胡陵、將引軍而西。
章邯軍至栗、項梁使別將朱雞石・餘樊君與戰。餘樊君死、朱雞石軍敗、亡走胡陵。項梁乃引兵入薛、誅雞石。項梁前使項羽別攻襄城、襄城堅守不下。已拔、皆阬之。還報項梁。
項梁聞陳王定死、召諸別將會薛計事。此時沛公亦起沛、往焉。
(『史記』巻七、項羽本紀)


項梁、楚王を名乗っていた景駒と立てていた秦嘉を倒す。




沛公怨雍齒與豐子弟叛之、聞東陽簶君・秦嘉立景駒為假王、在留、乃往從之、欲請兵以攻豐。
是時秦將章邯從陳、別將司馬𡰥將兵北定楚地、屠相、至碭。
東陽簶君・沛公引兵西、與戰蕭西、不利。還收兵聚留、引兵攻碭、三日乃取碭。因收碭兵、得五六千人。攻下邑、拔之。還軍豐。
聞項梁在薛、從騎百餘往見之。項梁益沛公卒五千人、五大夫將十人。沛公還、引兵攻豐。
(『史記』巻八、高祖本紀)

沛公劉邦はちょうどその頃に豊(雍歯)の裏切りに遭い、秦嘉に助力を頼もうとしていた。



しかし秦嘉が滅んだ事で、項梁の傘下となる事を選んだのであろう。



それまでに5千人以上得ていた劉邦に、項梁は更に5千人付けてやったという。当初の項梁勢力や英布の勢力と同等の兵力であったわけだから、劉邦は兵力としても能力としても項梁の傘下の中でも十分大物の部類だったのだろう。



兵を増やしてやったのは、劉邦はこれから進出する土地の地元の人間であった事が影響したのではなかろうか。





そして項羽の得意技が炸裂。秦末のしまっちゃうおじさんである。