『史記』項羽本紀を読んでみよう:その37

その36(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180926/1537889666)の続き。





外黄不下。數日、已降、項王怒、悉令男子年十五已上詣城東欲阬之。外黄令舍人兒年十三、往説項王曰「彭越彊劫外黄、外黄恐、故且降、待大王。大王至又皆阬之、百姓豈有歸心?從此以東、梁地十餘城皆恐、莫肯下矣。」項王然其言、乃赦外黄當阬者。東至睢陽、聞之皆爭下項王。
漢果數挑楚軍戰、楚軍不出。使人辱之五六日、大司馬怒、渡兵艴水。士卒半渡、漢撃之、大破楚軍、盡得楚國貨賂。大司馬咎・長史翳・塞王欣皆自剄艴水上。
大司馬咎者、故蘄獄掾、長史欣亦故櫟陽獄吏、両人嘗有紱於項梁、是以項王信任之。
當是時、項王在睢陽、聞海春侯軍敗、則引兵還。漢軍方圍鍾離眛於滎陽東、項王至、漢軍畏楚、盡走險阻。
(『史記』巻七、項羽本紀)

外黄を攻めた項羽。外黄がすぐには降伏せず、数日後に降伏した事から、15歳以上の男子全員を地面にしまっちゃおうとしたという。それを13歳の少年に説得されて許す事にしたところ、他の都市も項羽に降伏するようになったという。



楚の懐王の時点で指摘されていた項羽の問題点である。戦う相手を絶滅させる勢いでやってしまうため、一旦敵対したらとことん項羽に抵抗しなければいけない、となってしまうのである。



ここで項羽の方針転換によって交戦の時間を稼げた事になるが、少々遅すぎた。




劉邦は曹咎を挑発して誘い出し、半数が渡河した時点で攻撃をかけるという兵書のお手本になりそうな戦を見せる。項羽が信任して留守を任せた曹咎と、かつての王董翳・司馬欣は追い詰められて自殺した。董翳・司馬欣は一度は劉邦に降伏したが、結局は項羽の元に戻っていたのである。



曹咎は沛郡蘄県の獄掾ということらしいので、沛郡の曹氏である曹参と同族だったりしたのかもしれないが、証拠は無い。ただ、曹咎・司馬欣とも項羽(項梁)との昔の関係によって贔屓されていた、という事らしい。


何らかのゆかりのがある者を優先起用していくのは当時としてはそこまでおかしい事でも無いとは思うが、わざわざそう記述されるところを見ると、人々からはあまり的確とは思えない人事と映っていたのかもしれない。





結局曹咎は項羽の到着まで持たなかった。だが劉邦項羽が戻ってくるとすっかりビビッて守りに入ったのであった。



情けなくも見えるが、全体の情勢は劉邦有利なのであるから(結局項羽は彭越を討ったわけでもなく、彭越が兵站破壊する危機から脱していない)、劉邦は危険を避け、項羽がジリ貧になるのを待った方がいい、という事なのだろう。



この時の劉邦はカッコよくは無いが、合理的な判断にはなっているのである。