『漢書』元帝紀を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180309/1520521847)の続き。




五年春正月、以周子南君為周承休侯、位次諸侯王。
三月、行幸雍、祠五畤。
夏四月、有星孛于參。
詔曰「朕之不逮、序位不明、衆僚久懬、未得其人。元元失望、上感皇天、陰陽為變、咎流萬民、朕甚懼之。乃者關東連遭災害、饑寒疾疫、夭不終命。詩不云乎?『凡民有喪、匍匐救之。』其令太官毋日殺、所具各減半。乗輿秣馬、無乏正事而已。罷角抵・上林宮館希御幸者・齊三服官・北假田官・鹽鐵官・常平倉。博士弟子毋置員、以廣學者。賜宗室子有屬籍者馬一匹至二駟、三老・孝者帛、人五匹、弟者・力田三匹、鰥寡孤獨二匹、吏民五十戸牛酒。」
省刑罰七十餘事。
除光祿大夫以下至郎中保父母同産之令。
令從官給事宮司馬中者、得為大父母父母兄弟通籍。
冬十二月丁未、御史大夫貢禹卒。
衛司馬谷吉使匈奴、不還。
(『漢書』巻九、元帝紀)


初元5年。




「周子南君」というのは、武帝の時に周王の末裔に領土と爵位を与え優遇したものである。



当初「侯」ではなく「君」であったのは、もしかすると功績によって得た領土ではないということを示すために敢えて区別したのかもしれない。


だがここで周王の末裔は「周承休侯」となり、正式に「侯」となった。「位次諸侯王」とわざわざ書かれているのは、ほかの列侯よりも上、諸侯王のすぐ次の地位であるということを意味しているのだろう。




元帝、色々廃止・削減する。「不要不急」を減らす方向であるが、サラッと「塩鉄官」が含まれている。

元帝即位、天下大水、關東郡十一尤甚。二年、齊地飢、穀石三百餘、民多餓死、琅邪郡人相食。
在位諸儒多言鹽鐵官及北假田官・常平倉可罷、毋與民爭利。上從其議、皆罷之。又罷建章・甘泉宮衛、角抵、齊三服官、省禁苑以予貧民、減諸侯王廟衛卒半。又減關中卒五百人、轉穀振貸窮乏。
(『漢書』巻二十四上、食貨志上)


これらは大水や飢餓に対する対策として儒者が打ち出したものという。


ちなみに、これらの削減策の多くはこの時期に御史大夫になった儒者の貢禹が打ち出したものである。



この貢禹はすぐ死んでしまったが、元帝期の政治にはその後も影響を与えている。




この年に死んだ谷吉は、匈奴といっても既に従属状態となっていた呼韓邪単于ではなく、その対立単于である郅支単于への使者となって死んだものである。