『漢書』元帝紀を読んでみよう:その4

その3(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180308/1520435116)の続き。




三年春、令諸侯相位在郡守下。
珠突郡山南縣反、博謀羣臣。待詔賈捐之以為宜棄珠突、救民饑饉。乃罷珠突。
夏四月乙未晦、茂陵白鶴館災。詔曰「乃者火災降於孝武園館、朕戰栗恐懼。不燭變異、咎在朕躬。羣司又未肯極言朕過、以至於斯、將何以寤焉!百姓仍遭凶阨、無以相振、加以煩擾虖苛吏、拘牽乎微文、不得永終性命、朕甚閔焉。其赦天下。」
夏、旱。
立長沙煬王弟宗為王。
封故海昏侯賀子代宗為侯。
六月、詔曰「蓋聞安民之道、本繇陰陽。間者陰陽錯謬、風雨不時。朕之不徳、庶幾羣公有敢言朕之過者、今則不然。媮合苟從、未肯極言、朕甚閔焉。永惟烝庶之饑寒、遠離父母妻子、勞於非業之作、衛於不居之宮、恐非所以佐陰陽之道也。其罷甘泉・建章宮衛、令就農。百官各省費。條奏毋有所諱。有司勉之、毋犯四時之禁。丞相御史舉天下明陰陽災異者各三人。」於是言事者衆、或進擢召見、人人自以得上意。
四年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。
三月、行幸河東、祠后土。赦汾陰徒。賜民爵一級、女子百戸牛酒、鰥寡高年帛。行所過無出租賦。
(『漢書』巻九、元帝紀)


初元3年、4年。




「諸侯王相」とは王の宰相だが、この時代の王の領土は基本郡一つ分にも満たなかった。


かつては数郡にまたがる領土の王の方が多かったため、その相(宰相)は数郡分を統括していた事になるので郡太守より格式が上だったが、今の相は一郡未満の領土しか統括しない。そこで地位が格下げになったのである。




「海昏侯賀」とはあの昭帝の後に皇帝になってマッハで廃位された昌邑王劉賀の事である。

豫章太守廖奏言「舜封象於有鼻、死不為置後、以為暴亂之人不宜為太祖。海昏侯賀死、上當為後者子充國。充國死、復上弟奉親。奉親復死、是天絶之也。陛下聖仁、於賀甚厚、雖舜於象無以加也。宜以禮絶賀、以奉天意。願下有司議。」議皆以為不宜為立嗣、國除。
元帝即位、復封賀子代宗為海昏侯、傳子至孫、今見為侯。
(『漢書』巻六十三、昌邑王賀伝)


その劉賀が死ぬと、子の充国が継ぐはずだったが、その充国が死に、その後を継ぐ奉親もすぐ死んだという。そこで宣帝とその大臣たちは「これは天が劉賀を滅ぼそうとしているのだ」と解釈し、子が後を継ぐ事自体を許さなかったという。


しかし元帝はここで劉賀のほかの子である代宗を新たに後継ぎに立ててやったということである。



当時は「後継ぎがバタバタ死ぬ」のを見て「天が滅ぼそうとしている」と解釈する可能性がある、という事は示唆に富んでいる。