『漢書』景帝紀を読んでみよう:その3

その2(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171101/1509462141)の続き。




三年冬十二月、詔曰「襄平侯嘉子恢説不孝、謀反、欲以殺嘉、大逆無道。其赦嘉為襄平侯、及妻子當坐者復故爵。論恢説及妻子如法。」
春正月、淮陽王宮正殿災。
呉王濞・膠西王卬・楚王戊・趙王遂・濟南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠皆舉兵反。
大赦天下。
遣太尉亞夫・大將軍竇嬰將兵撃之。
御史大夫晁錯以謝七國。
二月壬子晦、日有食之。
諸將破七國、斬首十餘萬級。追斬呉王濞於丹徒。膠西王卬・楚王戊・趙王遂・濟南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠皆自殺。
夏六月、詔曰「乃者呉王濞等為逆、起兵相脅、詿誤吏民、吏民不得已。今濞等已滅、吏民當坐濞等及逋逃亡軍者、皆赦之。楚元王子蓺等與濞等為逆、朕不忍加法、除其籍、毋令汙宗室。」
立平陸侯劉禮為楚王、續元王後。
立皇子端為膠西王、勝為中山王。
賜民爵一級。
(『漢書』巻五、景帝紀

景帝前3年。



前回もったいぶった事を書いたが、本紀で見るとあっという間に終わった感が強い「呉楚七国の乱」。



実際には反乱しようとしていた国はもっとあったということは以前に記事にしたことがある。



及景帝即位、(朝)錯為御史大夫、説上曰「昔高帝初定天下、昆弟少、諸子弱、大封同姓、故孽子悼惠王王齊七十二城、庶弟元王王楚四十城、兄子王呉五十餘城。封三庶孽、分天下半。今呉王前有太子之隙、詐稱病不朝、於古法當誅。文帝不忍、因賜几杖、徳至厚也。不改過自新、乃益驕恣、公即山鑄錢、煑海為鹽、誘天下亡人謀作亂逆。今削之亦反、不削亦反。削之、其反亟、禍小。不削之、其反遲、禍大。」
(『漢書』巻三十五、呉王濞伝)


それにしても、晁錯の「諸侯の領土を削減してもしなくても反乱しますし、削減しなかったら反乱は遅くなるけれど大変な事になるので、領土はどんどん削っていきましょう」という進言を聞き入れたのは景帝なのだが、いざ七国が反乱したとなったらサクッと晁錯を処刑して諸侯と手打ちにしようと図る景帝は、本当に凄い君主だと思う。




「呉楚七国の乱」自体については有名なのでいちいち細かくは書かないでおこうと思う。決して手抜きではない。



三年正月乙巳、赦天下。
長星出西方。
天火燔雒陽東宮大殿城室。
呉王濞・楚王戊・趙王遂・膠西王卬・濟南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠反、發兵西郷。
天子為誅晁錯、遣袁盎諭告、不止、遂西圍梁。
上乃遣大將軍竇嬰・太尉周亞夫將兵誅之。
六月乙亥、赦亡軍及楚元王子蓺等與謀反者。
封大將軍竇嬰為魏其侯。
立楚元王子平陸侯禮為楚王。
立皇子端為膠西王、子勝為中山王。
徙濟北王志為菑川王、淮陽王餘為魯王、汝南王非為江都王。
齊王將廬・燕王嘉皆薨。
(『史記』巻十一、孝景本紀)

史記』では七国以外の諸侯たちの封建や異動について少し詳しい。



ちなみに、斉王将閭(将廬)は元々は反乱に同意した側であったが実際には反乱せず、逆に他の反乱した王たち(全て斉王劉肥の子孫、すなわち近親である)に包囲されたのだが、最終的には漢王朝の側にも元は共謀していたことを知られたために攻め滅ぼされそうになり、恐れて自殺したのである。