『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その12

その11(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180215/1518620724)の続き。




三年春三月、詔曰「蓋聞有功不賞、有罪不誅、雖唐虞猶不能以化天下。今膠東相成勞來不怠、流民自占八萬餘口、治有異等。其秩成中二千石、賜爵關内侯。」
又曰「鰥寡孤獨高年貧困之民、朕所憐也。前下詔假公田、貨種・食。其加賜鰥寡孤獨高年帛。二千石嚴教吏謹視遇、毋令失職。」
令内郡國舉賢良方正可親民者。
夏四月戊申、立皇太子、大赦天下。賜御史大夫爵關内侯、中二千石爵右庶長、天下當為父後者爵一級。賜廣陵王黄金千斤、諸侯王十五人黄金各百斤、列侯在國者八十七人黄金各二十斤。
冬十月、詔曰「乃者九月壬申地震、朕甚懼焉。有能箴朕過失、及賢良方正直言極諫之士以匡朕之不逮、毋諱有司。朕既不徳、不能附遠、是以邊境屯戍未息。今復飭兵重屯、久勞百姓、非所以綏天下也。其罷車騎將軍・右將軍屯兵。」
又詔曰「池籞未御幸者、假與貧民。郡國宮館、勿復修治。流民還歸者、假公田、貸種・食、且勿算事。」
十一月、詔曰「朕既不逮、導民不明、反側晨興、念慮萬方、不忘元元。唯恐羞先帝聖徳、故並舉賢良方正以親萬姓、歴載臻茲、然而俗化闕焉。傳曰『孝弟也者、其為仁之本與!』其令郡國舉孝弟有行義聞于郷里者各一人。」
十二月、初置廷尉平四人、秩六百石。
省文山郡、并蜀。
(『漢書』巻八、宣帝紀

地節3年。




この年、宣帝は皇太子を立てた。



今は亡き許皇后が産んだ子である。



後一歳、上立許后男為太子、昌成君者為平恩侯。顯怒恚不食、歐血、曰「此乃民間時子、安得立?即后有子、反為王邪!」復教皇后令毒太子。皇后數召太子賜食、保阿輒先嘗之、后挾毒不得行。
(『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣霍皇后)

霍光の妻は宣帝が皇太子を立てた事を怒り(現在皇后になっている自分の娘が男子を産んだとしても、その子が皇太子になれないということなので)、皇后に皇太子の毒殺を命じたという。もりやくたちの毒見のため上手くいかなかったというから、おそらく宣帝も相当警戒していたということなのだろう。






車騎将軍張安世と右将軍霍禹の握っていた兵が返上された。

後數日、竟拜為大司馬車騎將軍、領尚書事。數月、罷車騎將軍屯兵、更為衛將軍、両宮衛尉、城門・北軍兵屬焉。
(『漢書』巻五十九、張安世伝)


だがこれには裏があり、張安世は代わりに衛将軍になって宮殿を守る兵をすべて任されるようになった。

更以(霍)禹為大司馬、冠小冠、亡印綬、罷其右將軍屯兵官屬、特使禹官名與光倶大司馬者。
(『漢書』巻六十八、霍光伝)


その一方で、宣帝は霍禹を右将軍から「大司馬」に昇進させたが、この「大司馬」には兵権もそのほかの何の権限も与えなかった。つまり、張安世だけが兵権を持ち続け、霍禹は兵権どころか権力から切り離されたのである。



一旦はどちらも同時に将軍を罷免するというのが上手いところである。全員が同じ措置を受けるので、反対しようにも出来ないわけだ。





宣帝の復讐は最終局面を迎えつつあった。