『漢書』元帝紀を読んでみよう:その3

その2(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180307/1520348480)の続き。




二年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。賜雲陽民爵一級、女子百戸牛酒。
立弟竟為清河王。
三月、立廣陵窅王太子霸為王。
詔罷黄門乗輿狗馬・水衡禁囿・宜春下苑・少府佽飛外池・嚴籞池田假與貧民。
詔曰「蓋聞賢聖在位、陰陽和、風雨時、日月光、星辰靜、黎庶康寧、考終厥命。今朕恭承天地、託于公侯之上、明不能燭、徳不能綏、災異並臻、連年不息。乃二月戊午、地震于隴西郡、毀落太上皇廟殿壁木飾、壞敗豲道縣城郭官寺及民室屋、壓殺人衆。山崩地裂、水泉湧出。天惟降災、震驚朕師。治有大虧、咎至於斯。夙夜兢兢、不通大變、深惟鬱悼、未知其序。間者歳數不登、元元困乏、不勝饑寒、以陷刑辟、朕甚閔之。郡國被地動災甚者無出租賦。赦天下。有可蠲除減省以便萬姓者、條奏、毋有所諱。丞相・御史・中二千石舉茂材異等直言極諫之士、朕將親覽焉。」
夏四月丁巳、立皇太子。賜御史大夫爵關内侯、中二千石右庶長、天下當為父後者爵一級、列侯錢各二十萬、五大夫十萬。
六月、關東饑、齊地人相食。
秋七月、詔曰「歳比災害、民有菜色、慘怛於心。已詔吏虚倉廩、開府庫振救、賜寒者衣。今秋禾麥頗傷。一年中地再動。北海水溢、流殺人民。陰陽不和、其咎安在?公卿將何以憂之?其悉意陳朕過、靡有所諱。」
冬、詔曰「國之將興、尊師而重傅。故前將軍望之傅朕八年、道以經書、厥功茂焉。其賜爵關内侯、食邑八百戸、朝朔望。」
十二月、中書令弘恭・石顯等譖望之、令自殺。
(『漢書』巻九、元帝紀)


皇太子、立てられる。

孝成皇帝、元帝太子也。母曰王皇后、元帝在太子宮生甲觀畫堂、為世嫡皇孫。
宣帝愛之、字曰太孫、常置左右。
(『漢書』巻十、成帝紀


この皇太子こそ後の成帝である。宣帝が特に寵愛したというから、もしかしたら元帝が廃嫡されずに済んだ理由の一部はこの成帝にもあったかもしれない。




及宣帝寢疾、選大臣可屬者、引外屬侍中樂陵侯史高・太子太傅(蕭)望之・少傅周堪至禁中、拜高為大司馬車騎將軍、望之為前將軍光祿勳、堪為光祿大夫、皆受遺詔輔政、領尚書事。
宣帝崩、太子襲尊號、是為孝元帝。望之・堪本以師傅見尊重、上即位、數宴見、言治亂、陳王事。望之選白宗室明經達學散騎諫大夫劉更生給事中、與侍中金敞並拾遺左右。
四人同心謀議、勸道上以古制、多所欲匡正、上甚郷納之。
(『漢書』巻七十八、蕭望之伝)

蕭望之は元帝の学問の師である。宣帝時代には一度は御史大夫(副宰相)まで登ったが一度左遷されていた。しかし元帝との関係から再度脚光を浴びる事になったのである。


なおここに出てくる劉更生というのはあの有名な劉向の事。


使者至、召望之。望之欲自殺、其夫人止之、以為非天子意。
望之以問門下生朱雲。雲者好節士、勸望之自裁
於是望之卬天歎曰「吾嘗備位將相、年踰六十矣、老入牢獄、苟求生活、不亦鄙乎!」字謂雲曰「游、趣和藥來、無久留我死!」竟飲鴆自殺。
天子聞之驚、拊手曰「曩固疑其不就牢獄、果然殺吾賢傅!」是時太官方上晝食、上乃卻食、為之涕泣、哀慟左右。於是召(石)顯等責問以議不詳。皆免冠謝、良久然後已。
(『漢書』巻七十八、蕭望之伝)


しかし宦官の弘恭・石顕らによって追い落とされ、更に「廷尉に召喚して事情を聴く」という事を「逮捕して監獄に入れる」の事だとわからなかった元帝がうっかり令状にサインしてしまった事により、逮捕され獄に入れられて拷問される前にと蕭望之は自殺してしまった。


石顯字君房、濟南人。弘恭、沛人也。皆少坐法腐刑、為中黄門、以選為中尚書
宣帝時任中書官、恭明習法令故事、善為請奏、能稱其職。恭為令、顯為僕射。元帝即位數年、恭死、顯代為中書令。
是時、元帝被疾、不親政事、方隆好於音樂、以顯久典事、中人無外黨、精專可信任、遂委以政。事無小大、因顯白決、貴幸傾朝、百僚皆敬事顯。顯為人巧慧習事、能探得人主微指、内深賊、持詭辯以中傷人、忤恨睚眦、輒被以危法。
(『漢書』巻九十三、佞幸伝、石顕)


弘恭・石顕は宣帝が信任していた中書の宦官。いわば宣帝の側近中の側近であった。


代替わりすると、彼らは病気がちで政務をあまりやらない元帝に代わり、事実上皇帝の仕事を代行していたという。イマイチな上司に代わって優秀な部下が全部決めていた、みたいな状況だったのだろう。


宣帝は自分が臣下に騙されたりいいようにされたりしないだけの能力があったのだろうが、そういった能力あるいはやる気が無い場合にはこういう事も起こりうるのが当時の体制の問題点だったのではないだろうか。