『漢書』成帝紀を読んでみよう:その23

その22(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180420/1524150882)の続き。




二年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。
二月壬子、丞相翟方進薨。
三月、行幸河東、祠后土。
丙戌、帝崩于未央宮。
太后詔有司復長安南北郊。
四月己卯、葬延陵。
贊曰、臣之姑充後宮為婕簱、父子昆弟侍帷幄、數為臣言成帝善修容儀、升車正立、不内顧、不疾言、不親指、臨朝淵嘿、尊嚴若神、可謂穆穆天子之容者矣!博覽古今、容受直辭。公卿稱職、奏議可述。遭世承平、上下和睦。然湛于酒色、趙氏亂内、外家擅朝、言之可為於邑。建始以來、王氏始執國命、哀・平短祚、莽遂簒位、蓋其威福所由來者漸矣!
(『漢書』巻十、成帝紀

綏和2年。


(翟)方進憂之、不知所出。
會郎賁麗善為星、言大臣宜當之。上乃召見方進。
還歸、未及引決、上遂賜冊曰「皇帝問丞相、君有孔子之慮、孟賁之勇、朕嘉與君同心一意、庶幾有成。惟君登位、於今十年、災害並臻、民被飢餓、加以疾疫溺死、關門牡開、失國守備、盜賊黨輩。吏民殘賊、毆殺良民、斷獄歳歳多前。上書言事、交錯道路、懷姦朋黨、相為隠蔽、皆亡忠慮、羣下兇兇、更相嫉妒、其咎安在?觀君之治、無欲輔朕富民便安元元之念。間者郡國穀雖頗孰、百姓不足者尚衆、前去城郭、未能盡還、夙夜未嘗忘焉。朕惟往時之用、與今一也、百僚用度各有數。君不量多少、一聽羣下言、用度不足、奏請一切筯賦、税城郭堧及園田、過更、算馬牛羊、筯益鹽鐵、變更無常。朕既不明、隨奏許可、、後議者以為不便、制詔下君、君云賣酒醪。後請止、未盡月復奏議令賣酒醪。朕誠怪君、何持容容之計、無忠固意、將何以輔朕帥道羣下?而欲久蒙顯尊之位、豈不難哉!傳曰『高而不危、所以長守貴也。』欲退君位、尚未忍。君其孰念詳計、塞絶姦原、憂國如家、務便百姓以輔朕。朕既已改、君其自思、強食慎職。使尚書令賜君上尊酒十石、養牛一、,君審處焉。」
方進即日自殺。上祕之、遣九卿冊贈以丞相高陵侯印綬、賜乗輿祕器、少府供張、柱檻皆衣素。天子親臨弔者數至、禮賜異於它相故事。
(『漢書』巻八十四、翟方進伝)


長く丞相を務めた翟方進、死去。



彼の列伝によると成帝から失政を厳しく責め立てる策書が届いたために自殺したという。


その裏には、天文の動きが異変を示しており、いわばその対象とするべく(皇帝や他の大臣がその対象にならないように)、皇帝が丞相を死なせようとした、という事があったのではないか、という事だ。



だが成帝としてもそんなつもりだったと思われたくはないので、厳しい詰問の末に自殺したという事実を伏せたという。特に手厚い下賜をしたというのも、疑われないようにしたかったのだろう。




明年春、成帝崩。
帝素彊、無疾病。是時楚思王衍・梁王立來朝、明旦當辭去、上宿供張白虎殿。又欲拜左將軍孔光為丞相、已刻侯印書贊。昏夜平善、郷晨、傅絝韤欲起、因失衣、不能言、晝漏上十刻而崩。
民間歸罪趙昭儀、皇太后詔大司馬(王)莽・丞相・大司空曰「皇帝暴崩、群衆讙譁怪之。掖庭令輔等在後庭左右、侍燕迫近、雜與御史・丞相・廷尉治問皇帝起居發病状。」趙昭儀自殺。
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝成趙皇后)

しかし、成帝もまた後を追うように急死した。



その死については健康だったのに突然死したため寵姫の趙昭儀が疑われたというが、病気によるものの可能性も十分あるだろう。なんにせよ、成帝は長期政権の丞相を始末し、そしてあの王莽を大司馬に据え、そして皇太子を定めてから死んだ。



後數年、成帝崩。皇太后詔有司曰「皇帝即位、思順天心、遵經義、定郊禮、天下説憙。懼未有皇孫、故復甘泉泰畤・汾陰后土、庶幾獲福。皇帝恨難之、卒未得其祐。其復南北郊長安如故、以順皇帝之意也。」
(『漢書』巻二十五下、郊祀志下)


成帝が死んですぐにまた長安の南北郊が復活しているが、これは「皇帝は本当は長安南北郊をやりたかったのだが後継ぎ誕生を願って甘泉泰畤・汾陰后土に戻したのに御利益がなかった。やはり長安南北郊にする」という事らしい。




なお、賛で言っている「臣之姑充後宮為婕簱」というのは、成帝の班祜礱の事である。


彼女は成帝の子を産んだ(早死にした)が、子が皇帝になったわけでもなければ自らが皇后や皇太后になったわけでもないのに何故か『漢書外戚伝に立伝されている。


彼女は『漢書』の編者班固の一族の出なのである。




帝紀はここまで。前漢の黄昏が近づいてきた。