『漢書』文帝紀を読んでみよう:その13

その12(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171015/1507993393)の続き。




十四年冬、匈奴寇邊、殺北地都尉卬。
遣三將軍軍隴西・北地・上郡、中尉周舍為衛將軍、郎中令張武為車騎將軍、軍渭北、車千乗、騎卒十萬人。上親勞軍、勒兵、申教令、賜吏卒。自欲征匈奴、羣臣諫、不聽。皇太后固要上、乃止。
於是以東陽侯張相如為大將軍、建成侯董赫・内史欒布皆為將軍、撃匈奴匈奴走。
春、詔曰「朕獲執犧牲珪幣以事上帝宗廟、十四年于今。歴日彌長、以不敏不明而久撫臨天下、朕甚自媿。其廣筯諸祀壇場珪幣。昔先王遠施不求其報、望祀不祈其福、右賢左戚、先民後己、至明之極也。今吾聞祠官祝釐、皆歸福於朕躬、不為百姓、朕甚媿之。夫以朕之不徳、而專郷獨美其福、百姓不與焉、是重吾不徳也。其令祠官致敬、無有所祈。」
(『漢書』巻四、文帝紀

匈奴の侵攻。


以北地都尉孫卬、匈奴入北地、力戰死事、子侯。
(『史記』巻十九、恵景間侯者年表、缾侯孫単)

ここで殺された北地郡尉(都尉)は、どうやら立派な戦いぶりだったらしく、この時の功績によって子が列侯に封建されている。



ここで文帝は、ポーズであるかもしれないが自ら匈奴を討ちに行くという姿勢を示す。


父であり創始者である高祖劉邦は対匈奴を含めどれも親征している。文帝も自ら戦に出るという姿勢が必要だったのかもしれない。




十四年冬、匈奴謀入邊為寇、攻朝𨙻塞、殺北地都尉卬。
上乃遣三將軍軍隴西・北地・上郡、中尉周舍為衛將軍、郎中令張武為車騎將軍、軍渭北、車千乗、騎卒十萬。帝親自勞軍、勒兵、申教令、賜軍吏卒。帝欲自將撃匈奴、羣臣諫、皆不聽。皇太后固要帝、帝乃
止。於是以東陽侯張相如為大將軍、成侯赤為内史、欒布為將軍、撃匈奴匈奴遁走。
春、上曰「朕獲執犧牲珪幣以事上帝宗廟、十四年于今、歴日緜長、以不敏不明而久撫臨天下、朕甚自愧。其廣筯諸祀墠場珪幣。昔先王遠施不求其報、望祀不祈其福、右賢左戚、先民後己、至明之極也。今吾聞祠官祝釐、皆歸福朕躬、不為百姓、朕甚愧之。夫以朕不徳、而躬享獨美其福、百姓不與焉、是重吾不徳。其令祠官致敬、毋有所祈。」
是時北平侯張蒼為丞相、方明律暦。魯人公孫臣上書陳終始傳五徳事、言方今土徳時、土徳應黄龍見、當改正朔服色制度。天子下其事與丞相議。丞相推以為今水徳、始明正十月上鄢事、以為其言非是、請罷之。
(『史記』巻十、孝文本紀)

史記』孝文本紀では、実は対匈奴人事が一部違っている。


漢書』文帝紀ではこの時は欒布が内史であったかのようになっているが、『漢書』百官公卿表下ではこの年に「中尉周舍。内史董赤。」と記録されている。だがその一方で『史記』漢興以来将相名臣年表ではこの年に「成侯董赤・内史欒布・昌侯盧卿・隆慮侯竈・簶侯遬皆為將軍、東陽侯張相如為大將軍、皆撃匈奴。中尉周舍・郎中令張武皆為將軍、屯長安旁。」と書かれており、実際にこの時に内史だったのは誰なのか良くわからなくなっている。


それとも内史はこの年に欒布から董赤に代わったとでも言うのだろうか?





また『史記』では最後に丞相張蒼と公孫臣なる人物の議論について載せているが、これは翌年の記事のいわば前振りである。詳しくは次回で。