『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その8

その7(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180210/1518188515)の続き。






二年春、以水衡錢為平陵、徙民起第宅。
大司農陽城侯田延年有罪自殺。
夏五月、詔曰「朕以眇身奉承祖宗、夙夜惟念孝武皇帝躬履仁義、選明將、討不服、匈奴遠遁、平氐・羌・昆明・南越・百蠻郷風、款塞來享。建太學、修郊祀、定正朔、協音律。封泰山、塞宣房、符瑞應、寶鼎出、白麟獲。功徳茂盛、不能盡宣、而廟樂未稱、其議奏。」有司奏請宜加尊號。
六月庚午、尊孝武廟為世宗廟、奏盛徳・文始・五行之舞、天子世世獻。武帝巡狩所幸之郡國、皆立廟。
賜民爵一級、女子百戸牛酒。
匈奴數侵邊、又西伐烏孫烏孫昆彌及公主因國使者上書、言昆彌願發國精兵撃匈奴、唯天子哀憐、出兵以救公主。
秋、大發興調關東輕車鋭卒、選郡國吏三百石伉健習騎射者、皆從軍。御史大夫田廣明為祁連將軍、後將軍趙充國為蒲類將軍、雲中太守田順為虎牙將軍、及度遼將軍范明友・前將軍韓筯、凡五將軍、兵十五萬騎、校尉常惠持節護烏孫兵、咸撃匈奴
(『漢書』巻八、宣帝紀


本始2年。



以選入為大司農。會昭帝崩、昌邑王嗣位、淫亂、霍將軍憂懼、與公卿議廢之、莫敢發言。(田)延年按劍、延叱羣臣、即日議決、語在光傳。宣帝即位、延年以決疑定策封陽成侯。・・・(中略)・・・昭帝大行時、方上事暴起、用度未辦、延年奏言「商賈或豫收方上不祥器物、冀其疾用、欲以求利、非民臣所當為。請沒入縣官。」奏可。富人亡財者皆怨、出錢求延年罪。
(『漢書』巻九十、酷吏伝、田延年)


田延年は霍光の腹心の一人で、昌邑王廃位の際には剣に手を掛けて群臣を威圧したという人物。しかし酷吏に数えられるタイプであった事が最後には災いして失脚した。




宣帝初即位、欲襃先帝、詔丞相御史曰「・・・(中略)・・・其與列侯・二千石・博士議。」於是羣臣大議廷中、皆曰「宜如詔書。」長信少府勝獨曰「武帝雖有攘四夷廣土斥境之功、然多殺士衆、竭民財力、奢泰亡度、天下虚耗、百姓流離、物故者半。蝗蟲大起、赤地數千里、或人民相食、畜積至今未復。亡徳澤於民、不宜為立廟樂。」公卿共難勝曰「此詔書也。」勝曰「詔書不可用也。人臣之誼、宜直言正論、非苟阿意順指。議已出口、雖死不悔。」於是丞相義・御史大夫廣明劾奏勝非議詔書、毀先帝、不道、及丞相長史黄霸阿縱勝、不舉劾、倶下獄。
(『漢書』巻七十五、夏侯勝伝)

宣帝は自分の直接のルーツである武帝を特別な地位に就けようと試みた。高皇帝劉邦が「太祖」、文帝が「太宗」という廟号を贈られたようにしようということである。



そしてこれは武帝から幼帝と政治を託された事になっている霍光の希望でもあったのだろう。



宣帝も霍光も、武帝が素晴らしい皇帝でないと立ち位置が微妙になってしまうのだ。




だが、そんな発案者の気持ちを一切忖度せず、「武帝クソじゃね」と明言した人物として夏侯勝という儒者がいた。



誰もがそうであるわけではないが、当時の儒者は割と危険な言動をかます人物が少なくない。






匈奴が西域の側にある「烏孫」を攻めようとし、烏孫は漢に助けを求めた。



それに応じて漢は趙充国・范明友といったベテランの域の将軍をはじめとする15万騎もの大軍を動員し、さらに常恵を監督役として烏孫に派遣し、漢と烏孫匈奴を逆に挟み撃ちにする体制を作った。



常恵というのは蘇武と共に19年匈奴に抑留されていた人物。また田順はかつての丞相車千秋(田千秋)の後継ぎ息子。韓増はあの韓王信の子孫である。



なかなか個性的なメンツの揃った作戦といえよう。その結果については次回。