『漢書』景帝紀を読んでみよう:その12

その11(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171118/1510931379)の続き。




三年春正月、詔曰「農、天下之本也。黄金珠玉、飢不可食、寒不可衣、以為幣用、不識其終始。間歳或不登、意為末者衆、農民寡也。其令郡國務勸農桑、益種樹、可得衣食物。吏發民若取庸采黄金珠玉者、坐臧為盜。二千石聽者。與同罪。」
皇太子冠、賜民為父後者爵一級。
甲子、帝崩于未央宮。遺詔賜諸侯王列侯馬二駟、吏二千石黄金二斤、吏民戸百錢。出宮人歸其家、復終身。
二月癸酉、葬陽陵。
贊曰、孔子稱「斯民、三代之所以直道而行也」、信哉!周秦之敝、罔密文峻、而姦軌不勝。漢興、掃除煩苛、與民休息。至于孝文、加之以恭儉、孝景遵業、五六十載之間、至於移風易俗、黎民醇厚。周云成康、漢言文景、美矣!
(『漢書』巻五、景帝紀

景帝後3年。



景帝、死去。




漢書』の「賛」では景帝が思ったより良い感じで語られている。親族を殴り殺す若気の至りはあっても、皇帝としては少なくとも失格ではなかったというところか。



後三年十月、日月皆赤五日。
十二月晦、䨓。日如紫。五星逆行守太微。月貫天廷中。
正月甲寅、皇太子冠。
甲子、孝景皇帝崩。
遺詔賜諸侯王以下至民為父後爵一級、天下戸百錢。出宮人歸其家、復無所與。太子即位、是為孝武皇帝
三月、封皇太后弟(田)蚡為武安侯、弟勝為周陽侯。置陽陵。
太史公曰、漢興、孝文施大徳、天下懷安、至孝景、不復憂異姓、而晁錯刻削諸侯、遂使七國倶起、合從而西郷、以諸侯太盛、而錯為之不以漸也。及主父偃言之、而諸侯以弱、卒以安。安危之機、豈不以謀哉?
(『史記』巻十一、孝景本紀)

史記』では総括として「呉楚七国の乱は諸侯の勢力が大きすぎるのに晁錯による諸侯抑制が急すぎたために起こったのだ」といったような事を言っているようで、景帝の取った政策に批判的にも見える。





景帝はここまで。


なんとなく最初を除くと比較的平穏な治世だったようにも思えるが、皇太子をチェンジしていたり、ところどころで大胆なところもある、つかみどころのない皇帝のような印象である。