『漢書』景帝紀を読んでみよう:その11

その10(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171117/1510844978)の続き。




二年冬十月、省徹侯之國。
春、匈奴入鴈門、太守馮敬與戰死。發車騎材官屯。
春、以歳不登、禁内郡食馬粟、沒入之。
夏四月、詔曰「雕文刻鏤、傷農事者也。錦繍纂組、害女紅者也。農事傷則飢之本也、女紅害則寒之原也。夫飢寒並至、而能亡為非者寡矣。朕親耕、后親桑、以奉宗廟粢盛祭服、為天下先。不受獻、減太官、省繇賦、欲天下務農蠶、素有畜積、以備災害。彊毋攘弱、衆毋暴寡、老耆以壽終、幼孤得遂長。今歳或不登、民食頗寡、其咎安在?或詐偽為吏、吏以貨賂為市、漁奪百姓、侵牟萬民。縣丞、長吏也、奸法與盜盜、甚無謂也。其令二千石修其職。不事官職耗亂者、丞相以聞、請其罪。布告天下、使明知朕意。」
五月、詔曰「人不患其不知、患其為詐也。不患其不勇、患其為暴也。不患其不富、患其亡厭也。其唯廉士、寡欲易足。今訾算十以上乃得宦、廉士算不必衆。有市籍不得宦、無訾又不得宦、朕甚愍之。訾算四得宦、亡令廉士久失職、貪夫長利。」
秋、大旱。
(『漢書』巻五、景帝紀

景帝後2年。



徹侯(列侯)が原則領地に赴任することを命じる規定が廃止。周勃と共に生まれた規定が、その子周亜夫と共に消えた。




この年、景帝は官吏の横暴や汚職を戒める命令を出し、続いてそれまでの官吏登用の条件を緩和する命令を出した。



当時、官吏になるには相当な財産を持っていることが条件であったそうだが、ここでその財産の額を大きく減額したのである。



思うに、どちらも官吏の質の向上を意図しているのではないだろうか。




後二年正月、地一日三動。
郅將軍撃匈奴
酺五日。
令内史郡不得食馬粟、沒入縣官。令徒隸衣七緵布。止馬舂。為歳不登、禁天下食不造歳。
省列侯遣之國。
三月、匈奴入鴈門。
十月、租長陵田。
大旱。
衡山國・河東・雲中郡民疫。
(『史記』巻十一、孝景本紀)


史記』では官吏についても命令が記されていない一方、地震や疫病などが記載されていて、なんとなく当時の危機的状況のようなものが強調されているように感じられる。




「租長陵田」とあるが、「長陵」は高祖劉邦の皇帝陵とそこに置かれた集落の事である。つまり皇帝陵お膝元で租税を取った、ということだ。


たぶんそれまでは皇帝陵に供する以外の租税を取っていなかったのを、今回課税するようにした、ということなのだろう。これもある意味では漢王朝の危機を演出する記事なのかもしれない。



孝景帝乃使使持節拜(郅)都為鴈門太守、而便道之官、得以便宜從事。匈奴素聞郅都節、居邊、為引兵去、竟郅都死不近鴈門。匈奴至為偶人象郅都、令騎馳射莫能中、見憚如此。
(『史記』巻百二十二、酷吏列伝、郅都)

「郅将軍」というのは酷吏として有名な郅都の事である。ちなみに元皇太子だった臨江王劉栄を死に追いやったということで皇太后の恨みを買って最終的には死ぬこととなった。