『漢書』文帝紀を読んでみよう:その11

その10(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171013/1507820485)の続き。




十一年冬十一月、行幸代。
春正月、上自代還。
夏六月、梁王揖薨。
匈奴寇狄道。
十二年冬十二月,河決東郡。
春正月、賜諸侯王女邑各二千戸。
二月、出孝惠皇帝後宮美人、令得嫁。
三月、除關無用傳。
詔曰「道民之路、在於務本。朕親率天下農、十年于今、而野不加辟、歳一不登、民有飢色、是從事焉尚寡、而吏未加務也。吾詔書數下、歳勸民種樹、而功未興、是吏奉吾詔不勤、而勸民不明也。且吾農民甚苦、而吏莫之省、將何以勸焉?其賜農民今年租税之半。」
又曰「孝悌、天下之大順也。力田、為生之本也。三老、衆民之師也。廉吏、民之表也。朕甚嘉此二三大夫之行。今萬家之縣、云無應令、豈實人情?是吏舉賢之道未備也。其遣謁者勞賜三老・孝者帛人五匹、悌者・力田二匹、廉吏二百石以上率百石者三匹。及問民所不便安、而以戸口率置三老孝悌力田常員、令各率其意以道民焉。」
(『漢書』巻四、文帝紀

文帝前11年、前12年について。




恵帝の後宮の女性たちに結婚を許した、というのだが、恵帝が死んでからもう既に二十年近く経っている。


つまり恵帝死去の時に20歳の女の子はこの時期には40歳の女の子になっている訳である。




「除關無用傳」とは、各地の関所を通過する際に「割符」を用いなくても良い、ということらしい。つまり人々が各地を移動しやすくなったということである。




文帝は隙あらば田租を減らそうとする。減税というのはいつの世も分かりやすい人気取りというところか。





史記』孝文本紀は、文帝前11年、前12年に係る記事が無い。手抜きしているわけではなく実際無いのだから仕方ない。