その19(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180225/1519484831)の続き。
三年春正月癸卯、丞相(丙)吉薨。
三月、行幸河東、祠后土。
詔曰「往者匈奴數為邊寇、百姓被其害。朕承至尊、未能綏定匈奴。虚閭權渠單于請求和親、病死。右賢王屠耆堂代立。骨肉大臣立虚閭權渠單于子為呼韓邪單于、撃殺屠耆堂。諸王並自立、分為五單于、更相攻撃、死者以萬數、畜産大耗什八九、人民飢餓、相燔燒以求食、因大乖亂。單于閼氏子孫昆弟及呼遬累單于・名王・右伊秩訾・且渠・當戸以下將衆五萬餘人來降歸義。單于稱臣、使弟奉珍朝賀正月、北邊晏然、靡有兵革之事。朕飭躬齊戒、郊上帝、祠后土、神光並見、或興于谷、燭燿齊宮、十有餘刻。甘露降、神爵集。已詔有司告祠上帝・宗廟。三月辛丑、鸞鳳又集長樂宮東闕中樹上、飛下止地、文章五色、留十餘刻、吏民並觀。朕之不敏、懼不能任、婁蒙嘉瑞、獲茲祉福。書不云乎?『雖休勿休、祗事不怠。』公卿大夫其勗焉。減天下口錢。赦殊死以下。賜民爵一級、女子百戸牛酒。大酺五日。加賜鰥寡孤獨高年帛。」
置西河・北地屬國以處匈奴降者。
四年春正月、廣陵王胥有罪自殺。
匈奴單于稱臣、遣弟谷蠡王入侍。以邊塞亡寇、減戍卒什二。
大司農中丞耿壽昌奏設常平倉、以給北邊、省轉漕。賜爵關内侯。
夏四月辛丑晦、日有蝕之。詔曰「皇天見異、以戒朕躬、是朕之不逮、吏之不稱也。以前使使者問民所疾苦、復遣丞相・御史掾二十四人循行天下、舉寃獄、察擅為苛禁深刻不改者。」
(『漢書』巻八、宣帝紀)
五鳳3年、4年。
匈奴単于、ついに「臣」を称する。つまり、一部が降伏したとかではなく、匈奴全体が漢王朝を主と仰ぐという事を公式に認めたという事である。
かつては漢王朝より上の立場にあったと言ってもいい時期すらあったのだが、武帝の攻勢とその後の匈奴内の争いなどの結果、ついに立場は完全にひっくり返ったのだ。
五人の単于が並び立った匈奴では、最終的には呼韓邪単于が勝利した。その呼韓邪単于は勝利やその後の権力維持のためにも漢王朝との関係を望んだのであろう。
彼はもうかなりの年(少なくとも65歳以上)であるが、昭帝在位中から最近に至るまで、自分が皇帝になれるようにと呪詛を行っていたらしい。それがついに明るみに出て、死ぬ以外の手段が無くなったのである。
ただ、本来なら謀反人として刑を受けるとか子孫が連座するとかといった処分になるところ、諡号を(窅王)を贈られ、王子は爵位剥奪で済まされるなど、武帝の子という尊属に対する一定の配慮はあったようだ。