義渠公孫氏

將軍公孫賀。賀、義渠人、其先胡種。
賀父渾邪、景帝時為平曲侯、坐法失侯。
賀、武帝為太子時舍人。武帝立八歳、以太僕為輕車將軍、軍馬邑。後四歳、以輕車將軍出雲中。後五歳、以騎將軍從大將軍有功、封為南窌侯。後一歳、以左將軍再從大將軍出定襄、無功。後四歳、以坐酎金失侯。後八歳、以浮沮將軍出五原二千餘里、無功。後八歳、以太僕為丞相、封葛繹侯。賀七為將軍、出撃匈奴無大功、而再侯、為丞相。坐子敬聲與陽石公主姦、為巫蠱、族滅、無後。
(『史記』一百一十一、衛將軍驃騎列伝)

へえ、前漢の公孫賀は先祖が異民族であったとされているのか。今まで気付かなかった。




とはいえ父の公孫渾邪の時点で太守になっているので、先祖の段階で漢化していたのかもしれないが。




ただこの公孫賀は息子の公孫敬声と共に長年漢王朝の太僕(官有の馬匹の養育や管理を担当する大臣)だったらしいので、この義渠公孫氏は馬の扱いに長けた異民族の一族とみなされていたのかもしれないなあ。