忠孝侯

太常常山張顥為太尉。
【注】
顥字智明。搜神記曰「顥為梁相、新雨後、有鵲飛翔近地、令人擿之、墯地化為圓石、顥命椎破、得一金印、文曰『忠孝侯印』。」
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀、光和元年三月)


後漢霊帝の時の太尉張顥は、カササギを打ち落としたら石に変化して「忠孝侯印」と刻印された金印を発見したという話が伝わっている。


(王)莽聞之大懼、乃拝其黨親輕車將軍成武侯孫建為奮武將軍、光祿勳成都侯王邑為虎牙將軍、明義侯王駿為強弩將軍、春王城門校尉王況為震威將軍、宗伯忠孝侯劉宏為奮衝將軍、中少府建威侯王昌為中堅將軍、中郎將震羌侯竇兄為奮威將軍、凡七人、自擇除關西人為校尉軍吏、將關東甲卒、發奔命以撃(翟)義焉。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)

この「忠孝侯印」というのは、もしかして前漢末、王莽の時の「忠孝侯劉宏」の印だったのではなかろうか。



カササギが墜落した場所でたまたま発見したとか、そういうことだったのだろう。




この張顥が太尉になった時の皇帝は霊帝劉宏。同じ名前の人物の印を発見したというのは、結構示唆的だ。




大本の『捜神記』の話でそういう意図があったかは分からないが、忠孝侯劉宏の印だとしたら結構意味深である。鳥を打ち落としたら霊帝と同じ名前の人物の印を見つけた、というわけだから。