『漢書』武帝紀を読んでみよう:その14

その13(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171212/1513004832)の続き。




二年冬十月、行幸雍、祠五畤。
春三月戊寅、丞相(公孫)弘薨。
遣驃騎將軍霍去病出隴西、至皋蘭、斬首八千餘級。
夏、馬生余吾水中。
南越獻馴象・能言鳥。
將軍去病・公孫敖出北地二千餘里、過居延、斬首虜三萬餘級。
匈奴入鴈門、殺略數百人。遣衛尉張騫・郎中令李廣皆出右北平。廣殺匈奴三千餘人、盡亡其軍四千人、獨身脱還、及公孫敖・張騫皆後期、當斬、贖為庶人。
江都王建有罪、自殺。膠東王寄薨。
秋、匈奴昆邪王殺休屠王、并將其衆合四萬餘人來降、置五屬國以處之。以其地為武威・酒泉郡。
三年春、有星孛于東方。
夏五月、赦天下。
立膠東康王少子慶為六安王。封故相國蕭何曾孫慶為列侯。
秋、匈奴入右北平・定襄、殺略千餘人。
遣謁者勸有水災郡種宿麥。舉吏民能假貸貧民者以名聞。
減隴西・北地・上郡戍卒半。
發謫吏穿昆明池。
(『漢書』巻六、武帝紀)

元狩2年、3年。



霍去病、出兵。


其秋、單于怒昆邪王・休屠王居西方為漢所殺虜數萬人、欲召誅之。昆邪・休屠王恐、謀降漢、漢使票騎將軍迎之。昆邪王殺休屠王、并將其衆降漢、凡四萬餘人、號十萬。
於是漢已得昆邪、則隴西・北地・河西益少胡寇、徙關東貧民處所奪匈奴河南地新秦中以實之、而減北地以西戍卒半。
(『漢書』巻九十四上、匈奴伝上)


匈奴の方では単于の下の王たちのうち昆邪王・休屠王が単于の誅殺を恐れて漢に降伏した(実際には仲間割れで昆邪王だけが降伏)。



4万、号10万という人間が漢に移った事は匈奴にとっては重大事件だったはずで、昆邪王のテリトリーだった西方では匈奴の圧力が弱まったという。





また、南越が漢に対して訓練された象とおしゃべりインコを献上した。



つまり武帝はインコを飼っていた。もう一度言う。武帝はインコを飼っていた。