『漢書』高后紀を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170913/1505228794)の続き。




七年冬十二月、匈奴寇狄道、略二千餘人。
春正月丁丑、趙王友幽死于邸。
己丑晦、日有蝕之、既。
以梁王呂産為相國、趙王祿為上將軍。
立營陵侯劉澤為琅邪王。
(『漢書』巻三、高后紀)

呂后7年の最初の方。



趙王友は高祖劉邦の子。呂后に幽閉されて死んだということである。



また、呂産・呂禄と呂氏が臣下の中でも最高の地位に就いた。そしてここで王になった劉沢というのも実は呂后関係者である。



七年正月、太后召趙王友。
友以諸呂女為后、弗愛、愛他姫、諸呂女妒、怒去、讒之於太后、誣以罪過曰「呂氏安得王!太后百歳後、吾必撃之」。太后怒、以故召趙王。趙王至、置邸不見、令衛圍守之、弗與食。其羣臣或竊饋、輒捕論之、趙王餓、乃歌曰「諸呂用事兮劉氏危、迫脅王侯兮彊授我妃。我妃既妒兮誣我以惡、讒女亂國兮上曾不寤。我無忠臣兮何故弃國?自決中野兮蒼天舉直!于嗟不可悔兮寧蚤自財。為王而餓死兮誰者憐之!呂氏絶理兮託天報仇。」
丁丑、趙王幽死、以民禮葬之長安民冢次。
己丑、日食、晝晦。太后惡之、心不樂、乃謂左右曰「此為我也。」
二月、徙梁王恢為趙王。
呂王産徙為梁王、梁王不之國、為帝太傅。
立皇子平昌侯太為呂王。更名梁曰呂、呂曰濟川。
太后女弟呂嬃有女為營陵侯劉澤妻、澤為大將軍。太后王諸呂、恐即崩後劉將軍為害、迺以劉澤為琅邪王、以慰其心。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

趙王友の件については『史記』呂太后本紀の方が詳しい。



呂后はどうやら諸侯王たちの后に自分の一族をあてがっていたらしいが、趙王友はその后を怒らせたということのようだ。



「民礼」ということは、趙王友は諸侯王の地位を剥奪されたと言っていいだろう。




また、劉沢と呂氏の関係も『史記』本紀には書いている。呂后の妹(あの樊噲の妻)の娘を妻にしていたということだそうだ。


高祖の代からの功臣でもあり、呂后の関係者でもあり、劉氏の一族でもあるということで、劉沢を王にするのは、各勢力いずれにもいい顔ができる人事だったのかもしれない。





この年はまだ続くのだが、長くなるので一旦切る。