『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その60

その59(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/17/000100)の続き。





十年冬十月、淮南王・梁王・燕王・荊王・楚王・齊王・長沙王來朝。
夏五月、太上皇崩。
秋七月癸卯、太上皇葬于萬年。
八月、令諸侯王皆立太上皇廟于國都。
上欲廢太子、立戚夫人子如意。群臣爭之不能得。御史大夫周昌固爭之。上問其狀。昌為人剛直少言、對曰、臣雖口不能言、然心知其不可。陛下必欲廢太子、立戚夫人子如意。臣期不奉詔。昌嘗奏事、上方擁戚夫人。昌還走、上追之、騎昌項。上問曰、我何如主。曰、陛下桀紂主也。上笑之。後上嘗心不樂悲歌。群臣不知所謂。符璽御史郎趙堯進曰、陛下所為不樂者、非以為趙王年少、而戚夫人與呂后有隙、萬歲之後。不能自全也。上曰、然。堯曰、宜為趙王置貴強相、呂后太子群臣素所憚者。上曰、誰可使。對曰、周昌可相趙王。上謂昌曰、吾極知其左遷、然吾憂趙王、非公莫可相者。乃以昌為趙相、以趙堯代昌為御史大夫。初趙人方與公謂昌曰、君之吏趙堯、奇士也、且代君位。昌笑曰、堯年少刀筆吏耳、何至是乎。卒如方與公言。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第四)

劉邦、正妻呂后の子である太子(恵帝)ではなく、戚夫人の子の趙王劉如意を太子にしようと考える。



臣下の多くはそれに反対で、特に御史大夫の周昌は強く反対した。「その命令を下すなら、私はその詔を受け付けません」とまで言っている。



劉邦は彼らの反対を受け入れて廃太子を諦め、同時に趙王が後で始末されないようにと周昌を趙王の丞相に付けてやる(まあ、上手くは行かなかったのだが)。



しかし、「趙王に周昌を付けてやりなさい」と進言した趙堯が後任の御史大夫になるというのは、あまりに話が出来すぎている上に、ちょっと陰謀の匂いも感じる。劉邦としても、自分に逆らった周昌は左遷したかったのかもしれない。