『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その63

その62(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/21/000100)の続き。





三月、梁王彭越反、誅三族。
上撃陳豨時、徴兵梁王。梁王但遣將往。上怒之、梁王欲自行、其將扈輒曰、王始不行、見讓而往、即為擒矣。不如遂發兵反。梁王不聽、稱疾。梁王太僕有罪亡者、告彭越與扈輒謀反。上捕囚越、赦為庶人、徙之蜀。道逢呂后於路、涕泣曰無罪、願歸昌邑。呂后與倶還洛陽、謂上曰、彭越壯士、徙之蜀、自貽後患。不如遂誅之。呂后令其舍人告彭越復謀反、乃誅之、夷三族、梟其首。
令曰、敢有收視者輒捕之。梁太傅欒布為彭越使于齊還、報命首下、祠而哭之。上欲烹之、方提頭趨湯鑊。布曰、願一言而死。曰、陛下非彭越項氏不亡。今天下已定、彭王剖符受封、亦欲傳之萬世。今一徴兵、王不自行、而疑以為反。反形未見、以苛察誅之。臣恐功臣人人自危。彭王已死、臣生不如死。請就湯鑊。上赦之、拜為都尉。於是醢彭越、以醢遍賜諸侯。淮南王英布聞越死見醢、乃驚恐、陰有疑謀。
立皇子恢為梁王、皇子友為淮陽王。
夏四月、上行自洛陽。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第四)

彭越、調理される。



処刑に至ったのは劉邦の意思というよりは呂后の進言によるものではあるが、この辺りは確かに劉邦サイドの猜疑心が強まっているのを感じる。ただ、淮陰侯韓信や陳豨と比べたら小さな罪に思えるが、以前も淮陰侯韓信同様に彭越も兵を出し渋ったりしていたので、また同じような事をしたという事で合わせ技で一本だったのかもしれない。



そして英布は彭越を配られたのを見て反乱を決意。まあ、これは当然と言っていいだろう。彭越が割と強引な感じで消されて、後釜は劉邦の皇子というのでは、「俺も消されて皇子に交代されるヤツやないか」と考えない方がおかしい。



だが悲しいかな、彼ら諸侯たちは纏まりが無く、反乱を企んでも各個撃破されるか手遅れか、という有様なのであった。このあたり、各地で反乱やら独立やらが頻発してあっという間に体制が崩壊した項羽とは反対と言えよう。