趙幽王友、十一年立為淮陽王。趙隠王如意死、孝惠元年、徙友王趙、凡立十四年。
友以諸呂女為后、不愛、愛它姫。諸呂女怒去、讒之於太后曰「王曰『呂氏安得王?太后百歳後、吾必撃之。』」太后怒、以故召趙王。趙王至、置邸不見、令衛圍守之、不得食。其羣臣或竊饋之、輒捕論之。趙王餓、乃歌曰「諸呂用事兮、劉氏微。迫脅王侯兮、彊授我妃。我妃既妒兮、誣我以惡。讒女亂國兮、上曾不寤。我無忠臣兮、何故棄國?自快中野兮、蒼天與直!于嗟不可悔兮、寧早自賊!為王餓死兮、誰者憐之?呂氏絶理兮、託天報仇!」遂幽死。以民禮葬之長安。
(『漢書』巻三十八、趙幽王友伝)
高祖劉邦の子の一人、趙王友。彼は呂后の一族の娘を正妻(王后)としたが、他の側室を寵愛した。そうしたところその正妻は呂后に趙王友が呂氏を討ってやると言っていたと讒言したため、趙王友は死んだ。
趙共王恢。十一年、梁王彭越誅、立恢為梁王。十六年、趙幽王死、呂后徙恢王趙。恢心不樂。
太后以呂産女為趙王后、王后從官皆諸呂也、内擅權、微司趙王、王不得自恣。王有愛姫、王后鴆殺之。王乃為歌詩四章、令樂人歌之。王悲思、六月自殺。太后聞之、以為用婦人故自殺、無思奉宗廟禮、廢其嗣。
(『漢書』巻三十八、趙共王恢伝)
その次に趙王になったのはやはり高祖の子、趙王恢。彼の正妻も呂氏の娘であった。彼もその正妻ではない側室を寵愛していたが、正妻はその側室を毒殺。趙王恢は悲嘆のあまり自殺した。
この二人の趙王の事例を見るに、呂后時代の高祖の子供たちには基本的に呂氏関係者の正妻をあてがわれ、そのお付きの者たちも皆呂氏の関係者という感じだったようだ。
更にその呂氏出身の正妻は、王の方が正妻以外の女性を寵愛する事を許さず、その女性か、さもなくば王自身に対し実力行使すら辞さなかった。
翻って当時は代王だった漢の文帝。彼の正妻は姓や出自が不明だが、一体何者であったのか。兄弟たちと似たような境遇ではなかったのか。
彼が呂后に目を付けられずにいられたのは、当時の皇太后と縁続きでいとやんごとなき身分であったに違いない正妻を丁重に扱い、皇太后らの歓心を買っていたからではなかろうか。
孝文竇皇后、景帝母也。呂太后時以良家子選入宮。太后出宮人以賜諸王各五人、竇姬與在行中。
(『漢書』巻九十七上、孝文竇皇后伝)
文帝は2人の趙王のように他の女性を寵愛したようにも見えるが、これもよくよく考えてみると、その寵愛した女性竇氏というのは皇太后自身が王の元へ送り込んだ女性。
いわば、皇太后のコントロール下にあったとみなされ、彼女を寵愛しても趙王たちのような反抗的態度とは思われなかったのだろう。
要は、文帝は10代から20代の諸侯王時代、後宮関連において呂氏に背かず、どころか積極的に擦り寄る姿勢にも見える様子だったのではないか、という事だ。
正妻との間に男子が4人いたというのも、積極的に呂氏関係者に近づき、一次的接触を繰り返した結果、と見る事もできるだろう。