『漢書』高后紀を読んでみよう:その12

その11(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170926/1506352051)の続き。




章已殺産、帝令謁者持節勞章。章欲奪節、謁者不肯、章乃從與載、因節信馳斬長樂衛尉呂更始。還入北軍、復報太尉勃。勃起拜賀章、曰「所患獨産、今已誅、天下定矣。」
辛酉、斬呂祿、笞殺呂嬃、分部悉捕諸呂男女、無少長皆斬之。
大臣相與陰謀、以為少帝及三弟為王者皆非孝惠子、復共誅之、尊立文帝。語在周勃・高五王傳。
贊曰、孝惠・高后之時、海内得離戰國之苦、君臣倶欲無為、故惠帝拱己、高后女主制政、不出房闥、而天下晏然、刑罰罕用、民務稼穡、衣食滋殖。
(『漢書』巻三、高后紀)

朱虚侯、周勃らは呂氏のリーダー格呂産を討ち、同格と言ってよい呂禄や呂后の妹呂嬃らも始末する。



呂禄は朱虚侯劉章の妻の父なんですけどね。





そして、なんかサラッと書いてあるが大臣たち(陳平、周勃、夏侯嬰ら)はこの時の皇帝や恵帝の皇子として王となっていた者たちも「実際は恵帝の子ではなく、呂氏がそう偽ったもの」と断じて全員「始末」した。


事実なら確かに皇帝の交代は必須だろうが、まあその辺は「死人に口なし」かな、って気もする。




朱虚侯已殺産、帝命謁者持節勞朱虚侯。朱虚侯欲奪節信、謁者不肯、朱虚侯則從與載、因節信馳走、斬長樂衛尉呂更始。還、馳入北軍、報太尉。太尉起、拜賀朱虚侯曰「所患獨呂産、今已誅、天下定矣。」
遂遣人分部悉捕諸呂男女、無少長皆斬之。
辛酉、捕斬呂祿、而笞殺呂嬃。使人誅燕王呂通、而廢魯王偃。
壬戌、以帝太傅食其復為左丞相。
戊辰、徙濟川王王梁、立趙幽王子遂為趙王。
遣朱虚侯章以誅諸呂氏事告齊王、令罷兵。灌嬰兵亦罷滎陽而歸。
諸大臣相與陰謀曰「少帝及梁・淮陽・常山王、皆非真孝惠子也。呂后以計詐名他人子、殺其母、養後宮、令孝惠子之、立以為後、及諸王、以彊呂氏。今皆已夷滅諸呂、而置所立、即長用事、吾屬無類矣。不如視諸王最賢者立之。」或言「齊悼惠王高帝長子、今其適子為齊王、推本言之、高帝適長孫、可立也」。大臣皆曰「呂氏以外家惡而幾危宗廟、亂功臣今齊王母家駟、駟鈞、惡人也。即立齊王、則復為呂氏。」欲立淮南王、以為少、母家又惡。迺曰「代王方今高帝見子、最長、仁孝𥶡厚。太后家薄氏謹良。且立長故順、以仁孝聞於天下、便。」迺相與共陰使人召代王。
代王使人辭謝。再反、然後乗六乗傳。
後九月晦日己酉、至長安、舍代邸。大臣皆往謁、奉天子璽上代王、共尊立為天子。代王數讓、羣臣固請,然後聽。
東牟侯興居曰「誅呂氏吾無功、請得除宮。」迺與太僕汝陰侯滕公入宮、前謂少帝曰「足下非劉氏、不當立。」乃顧麾左右執戟者掊兵罷去。有數人不肯去兵、宦者令張澤諭告、亦去兵。滕公迺召乗輿車載少帝出。少帝曰「欲將我安之乎?」滕公曰「出就舍。」舍少府。迺奉天子法駕、迎代王於邸。報曰「宮謹除。」代王即夕入未央宮。有謁者十人持戟衛端門、曰「天子在也、足下何為者而入?」代王迺謂太尉。太尉往諭、謁者十人皆掊兵而去。代王遂入而聽政。
夜、有司分部誅滅梁・淮陽・常山王及少帝於邸。
代王立為天子。二十三年崩、謚為孝文皇帝。
太史公曰、孝惠皇帝・高后之時、黎民得離戰國之苦、君臣倶欲休息乎無為、故惠帝垂拱、高后女主稱制、政不出房戸、天下晏然。刑罰罕用、罪人是希。民務稼穡、衣食滋殖。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

文章量は多いが内容的には同じ。文帝即位や皇帝排除の下りが詳しい。



代王(文帝)がやってきたらそれまでの皇帝はのけものフレンズというのが怖い。



大臣議欲立齊王、而琅邪王及大臣曰「齊王母家駟鈞、惡戻、虎而冠者也。方以呂氏故幾亂天下、今又立齊王、是欲復為呂氏也。代王母家薄氏、君子長者、且代王又親高帝子、於今見在、且最為長。以子則順、以善人則大臣安。」
(『史記』巻五十二、斉悼恵王世家)

なお、新皇帝に斉王ではなく代王を推した者の一人として「琅邪王」の名が見える。


この「琅邪王」は斉王たちに騙されて兵を奪われた劉沢の事である。斉王即位に反対するのも当然かもしれない。巡り巡って斉王は復讐されてしまったと言える。






というわけで、『漢書』高后紀も以上。



途中から『史記』呂太后本紀の方が一方的に詳しいという状態になった。逆に言うと『漢書』高后紀はそれだけ簡略化されているということだ。