始皇帝暗殺成功

傳書又言、燕太子丹使刺客荊軻刺秦王、不得、誅死。後高漸麗復以撃筑見秦王、秦王説之。知燕太子之客、乃冒其眼、使之撃筑。漸麗乃置鉛於筑中以為重、當撃筑、秦王膝進、不能自禁、漸麗以筑撃秦王顙。秦王病傷、三月而死。
夫言高漸麗以筑撃秦王、實也。言中秦王病傷三月而死、虚也。
(『論衡』書虚篇)

『論衡』によると、当時の伝説ではあの荊軻始皇帝(秦王)の暗殺に失敗した後、友人高漸離も暗殺を企て、始皇帝はその時の傷がもとで三か月後に死んだ、という話があったらしい。





秦始皇召見、人有識者、乃曰「高漸離也。」秦皇帝惜其善撃筑、重赦之、乃矐其目。使撃筑、未嘗不稱善。稍益近之、高漸離乃以鉛置筑中、復進得近、舉筑朴秦皇帝、不中。於是遂誅高漸離、終身不復近諸侯之人。
(『史記』巻八十六、刺客列伝、荊軻

『論衡』で王充自身が指摘しているが、高漸離の暗殺計画も失敗したというのが『史記』に記される顛末なので、『論衡』が記す異説は結末が完全に逆転している。





この時代の伝聞なんてそんなものだ、という事も言えるのかもしれないし、始皇帝が死ぬ直前に行われた張良による暗殺未遂事件とごっちゃになったなんていう仮説も立てられるかもしれない。