『史記』陳渉世家を読んでみよう:その2

その1(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180720/1532012535)の続き。






二世元年七月、發閭左適戍漁陽、九百人屯大澤郷。陳勝・呉廣皆次當行、為屯長。
會天大雨、道不通、度已失期。失期、法皆斬。
陳勝、呉廣乃謀曰「今亡亦死、舉大計亦死、等死、死國可乎?」陳勝曰「天下苦秦久矣。吾聞二世少子也、不當立、當立者乃公子扶蘇扶蘇以數諫故、上使外將兵。今或聞無罪、二世殺之。百姓多聞其賢、未知其死也。項燕為楚將、數有功、愛士卒、楚人憐之。或以為死、或以為亡。今誠以吾衆詐自稱公子扶蘇・項燕、為天下唱、宜多應者。」呉廣以為然。乃行卜。卜者知其指意曰「足下事皆成、有功。然足下卜之鬼乎!」陳勝・呉廣喜、念鬼、曰「此教我先威衆耳。」乃丹書帛曰「陳勝王」、置人所罾魚腹中。卒買魚烹食、得魚腹中書、固以怪之矣。又輭令呉廣之次所旁叢祠中、夜篝火、狐鳴呼曰「大楚興、陳勝王」。卒皆夜驚恐。旦日、卒中往往語、皆指目陳勝
(『史記』巻四十八、陳渉世家)

秦の二世皇帝の元年7月、陳勝呉広は徴兵され、東北辺にあたる漁陽へ向かう事を命じられた。その際に彼らは屯長であったというから、一定数の部隊長のような扱いになったらしい。小作人だったとはいえ、陳勝はある程度の教養か功績が既にあった人物だったのかもしれない。



しかし、大雨により期限までに行く事が出来そうにないとわかった。このような遅刻の罰は死刑であった。




そこで陳勝呉広は「死刑を逃れようと逃亡しても死ぬ事になるだろうし、一発大きな事をやらかしても死ぬ事になるだろう。どちらにしても死ぬのであるから、自分の国を興す事に命を懸けた方がいいのでは?」と宣い、挙兵のための準備を始めた。



始皇帝二十三年)荊將項燕立昌平君為荊王、反秦於淮南。
二十四年、王翦・蒙武攻荊、破荊軍、昌平君死、項燕遂自殺。
(『史記』巻六、秦始皇本紀)


項燕というのはかつての楚(荊)の将で、楚王が秦に捕らえられるかという時期に秦の重臣であったらしい昌平君を楚王に立てて秦に反抗した人物である。



秦に反抗的な人たちからすれば、彼の行動はいわば模範とすべき「壮挙」だったのかもしれない。




公子扶蘇については知る人も多いだろう。始皇帝の子で、後継者と目されていたが二世皇帝・李斯。趙高の策略により自殺している。


世間ではその最後を知らない人も多かったという事だが、面白い事に陳勝らは知っていた。屯長という地位ゆえだろうか?


今の秦の体制に不満を持つ者なら、生きていた扶蘇に代わりに玉座に就いてほしい、と思うだろう。




とにかく、陳勝呉広は彼らのネームバリューを利用すると共に、「魚の中から「陳勝が王になる」という予言書が発見される」などといった怪奇現象を作る事で、兵士たちを反乱に駆り立て、挙兵を成功させようとしたのだった。