嫪毐封為長信侯。予之山陽地、令毐居之。宮室車馬衣服苑囿馳獵恣毐。事無小大皆決於毐。又以河西太原郡更為毐國。
(『史記』巻六、秦始皇本紀、始皇八年)
秦の統一前夜、始皇帝がまだ若く、まだ秦王だった頃のこと。
とてつもなく巨大なマーラ様をお持ちだったと言われる嫪毐は、宰相呂不韋の手引きで始皇帝(秦王政)の母である太后に性的な意味であてがわれた。
彼は宦官にされたと偽って後宮に送り込まれたという。
太后の文字通りの寵愛をほしいままにした嫪毐は「長信侯」となり、郡ひとつを与えられた*1。
さて、彼は侯になった段階では公式には「宦官」であった(宦官ではないと秦王にも露見するのは侯になった後)わけであるから、秦は宦官に対して侯の爵位と広大な領地を与えていたことになる。
始皇帝の死後、宦官の趙高が秦の権力をほしいままにして丞相・侯になっているのだが、宦官でも侯の爵位を与えられることがあるという実例は嫪毐によって作られていたのかもしれない。
もっとも、少なくとも秦においてはもともと宦官であることを理由とした爵位の差別が無かったということかもしれないが。