元后の結婚相手

夫二相不鈞而相遇、則有立死。若未相適、有豫亡之禍也。
王莽姑正君許嫁、至期當行時、夫輒死。如此者再。乃獻之趙王、趙王未取又薨。清河南宮大有與正君父稺君善者、遇相正君曰「貴為天下母。」
是時、宣帝世、元帝爲太子、稺君乃因魏郡都尉納之太子、太子幸之生子君上。宣帝崩、太子立、正君爲皇后、君上爲太子。元帝崩、太子立、是爲成帝、正君爲皇太后、竟爲天下母。
夫正君之相當爲天下母、而前所許二家及趙王、爲無天下父之相、故未行而二夫死、趙王薨。是則二夫・趙王無帝王大命、而正君不當與三家相遇之驗也。
(『論衡』骨相)

王莽の叔母である王正君(王政君)、すなわち元后は、結婚直前になって結婚相手に二度先立たれ、諸侯王の後宮に入る事になったがその王も死んだという。そこで皇太子(元帝)の側室となって後の成帝を産んだ。




及壮大、婉順得婦人道。嘗許嫁未行、所許者死。後東平王聘政君為姫、未入、王薨。(王)禁獨怪之、使卜數者相政君、「當大貴、不可言。」禁心以為然、乃教書、學鼓琴。五鳳中、獻政君、年十八矣、入掖庭為家人子。
(『漢書』巻九十八、元后伝)


これについて『漢書』では、結婚が決まりながら相手が死んだとは書いているが二度あったとは明記されておらず、また彼女を後宮に入れようとした諸侯王は趙王ではなく東平王であったとしていて、細部が違っている。



これについて、『論衡』が誤っていたりする部分もあるかもしれないが、東平王については、初代の東平王劉宇は元帝の弟で、甘露二年に初めて東平王になり、それから三十二年生きたとされている(『漢書』諸侯王表など)ので、『漢書』内で矛盾を生じている。



それに対し、趙王については五鳳二年に趙繆王劉元が死去しており、上記『漢書』元后伝の記事の東平王を趙王に読み替えると丁度矛盾なく話が成立する。




つまり、元后が最初に輿入れする予定だった諸侯王は「趙王」とする『論衡』の方が妥当であるかもしれない、ということである。