『史記』項羽本紀を読んでみよう:その24

その23の続き。





漢之元年四月、諸侯罷戲下、各就國。
項王出之國、使人徙義帝曰「古之帝者地方千里、必居上游。」乃使使徙義帝長沙郴縣。趣義帝行、其羣臣稍稍背叛之、乃陰令衡山・臨江王撃殺之江中。
韓王成無軍功、項王不使之國、與倶至彭城、廢以為侯、已又殺之。
臧荼之國、因逐韓廣之遼東、廣弗聽、荼撃殺廣無終、并王其地。
(『史記』巻七、項羽本紀)

項羽と諸侯の軍、東へ帰る。




そして項羽は義帝を殺害。



実際の殺害は漢の高祖2年の10月頃のようだ(『史記』秦楚之際月表)。



直接戦ったのは呉芮と共敖と言う事になる。義帝が送られたという長沙に近い王たちが相手をしたという事だ。



詳細が分からないので何とも言えないところもあるが、少なくとも項羽とその仲間たちが主君であるはずの義帝を殺したという事は、流石に大きな問題になったはずである。





それとは別に、項羽は韓王としていた韓成を降格させ、最終的には殺してしまったという。

(張)良至韓、韓王成以良從漢王故、項王不遣成之國、從與倶東。良説項王曰「漢王燒絶棧道、無還心矣。」乃以齊王田榮反、書告項王。項王以此無西憂漢心、而發兵北撃齊。
項王竟不肯遣韓王、乃以為侯、又殺之彭城。
(『史記』巻五十五、留侯世家)


韓王の臣下に当たる張良が漢王劉邦に肩入れしていたためだというが、項羽絶対殺すマンを一人増やしてしまったという印象がぬぐえない。




また燕の方では、項羽の仕置きに反抗した(元)燕王韓広が新たな燕王臧荼に滅ぼされ、臧荼が燕全域の王になった。






早くも、項羽体制は崩壊し始めていると言えるだろう。