大英帝国リスペクト

詔曰「故衡山王呉芮與子二人・兄子一人、從百粵之兵、以佐諸侯、誅暴秦、有大功、諸侯立以為王。項羽侵奪之地、謂之番君。其以長沙・豫章・象郡・桂林・南海立番君芮為長沙王。」
(『漢書』巻一下、高帝紀下、高祖五年)

秦已破滅、(趙)佗即撃并桂林・象郡、自立為南越武王。高帝已定天下、為中國勞苦、故釋佗弗誅。漢十一年、遣陸賈因立佗為南越王、與剖符通使、和集百越、毋為南邊患害、與長沙接境。
(『史記』巻一百一十三、南越列伝)

前漢の南越王趙佗は南海郡を地盤として桂林郡・象郡を併合していた。



その一方、劉邦に付いた番君呉芮は劉邦から長沙・豫章・象郡・桂林・南海を領土とする長沙王に封建された。




長沙王呉芮の領有する郡は半分以上が南越王趙佗と被っている。というか趙佗は完全に長沙王呉芮の領土内に居座っている感じになっている。




しかし劉邦は南越王を追認してしまったので、南越王の領域については長沙王と南越王とで支配権が衝突することになっている。



長沙王の領土については「南越王を滅ぼして自分のものとしろ」という意味合いだったのかもしれないが、南越王を追認しては台無しであろう。




劉邦の二枚舌外交とでも言うべき状態である。