『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その46

その45の続き。


莽遣使者分赦城中諸獄囚徒、皆授兵、殺豨飲其血、與誓曰「有不為新室者、社鬼記之!」更始將軍史褜將度渭橋、皆散走、褜空還。衆兵發掘莽妻子父祖冢、燒其棺椁及九廟・明堂・辟雍、火照城中。或謂莽曰「城門卒、東方人、不可信。」莽更發越騎士為衛、門置六百人、各一校尉。
十月戊申朔、兵從宣平城門入、民間所謂都門也。張邯行城門、逢兵見殺。王邑・王林・王巡・䠠綠等分將兵距撃北闕下。漢兵貪莽封力戰者七百餘人。會日暮、官府邸第盡犇亡。
二日己酉、城中少年朱弟、張魚等恐見鹵掠、趨讙並和、燒作室門、斧敬法闥、謼曰「反虜王莽、何不出降?」火及掖廷承明、黄皇室主所居也。莽避火宣室前殿、火輒隨之。宮人婦女謕謼曰「當奈何!」時莽紺袀服、帯璽韍、持虞帝匕首。天文郎桉栻於前、日時加某、莽旋席隨斗柄而坐、曰「天生徳於予、漢兵其如予何!」莽時不食、少氣困矣。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

王莽は使者を派遣して城内の囚人たちを赦免し、武器を授け、豚を殺しその血を飲ませて「新王朝のために働かない者は、土地の神がそれを記録する」と誓いを立てさせた。
更始将軍の史褜が彼らを率いて渭橋を渡ったが、みな散り散りになってしまい、史褜は一人虚しく帰ってきた。
兵たちは王莽の妻子や父祖の墓を暴き、棺桶や九廟・明堂・辟雍を焼き、その火が城内を明るく照らした。
ある者が王莽へ「城門の兵士たちは東方の人間であり、信用できません」と言ったため、王莽は城門の兵を越騎の兵士たちと交代させ、門ごとに六百人と校尉一人を置いた。



十月一日戊申、兵が宣平門から入ってきた。民が都門と呼んでいる門である。張邯は城門を巡回していて入ってきた兵に遭遇して殺された。王邑・王林・王巡・䠠綠らは分担して兵を率いて北の正門の元で守った。漢の兵は王莽を得て諸侯に封建されたいと思って戦った者が七百人余りいた。日が暮れると、役所や官舎の人間は皆逃亡していた。



二日己酉城内の若者の朱弟や張魚らが捕まって戦利品になってしまうことを恐れ、皆で走って騒ぎ回り、作室門を焼き、敬法闥を斧で破壊し、「反乱者王莽、なぜ降伏しない?」と大声で触れ回った。
火は掖庭の承明殿にまで及んだ。黄皇室主(王莽の娘、平帝の皇后)のいるところである。
王莽は火を避けて宣室前殿へ行ったが、火は王莽を追ってきた。宮女は「どうすればいいのでしょう」と泣き叫んだ。この時王莽は紺色の服を着て皇帝の璽綬を帯び、虞帝の匕首を持っていた。天文郎が占い道具を使って王莽の前で占いを行い、王莽はその間席の周りで威斗の柄の部分に従ってぐるぐる回り、それから座って「天は予に天子となる徳を与えたのだから、漢の兵士もどうすることができようか」と言った。王莽は食事をせず、少しばかり気力が衰えていた。


ついに終末のラッパが聞こえてきた。



長安城に乱入してきた周囲の反乱者、そして蜂起した城内の民。





「越騎」とは諸説あるが越人による異民族騎兵部隊であると言われている



つまりこの時の王莽は東方の人間よりも越人の方が信用できると判断したことになる。




后立歳餘、平帝崩。莽立孝宣帝玄孫嬰為孺子、莽攝帝位、尊皇后為皇太后。三年、莽即真、以嬰為定安公、改皇太后號為定安公太后太后時年十八矣、為人婉瘱有節操。
自劉氏廢、常稱疾不朝會。莽敬憚傷哀、欲嫁之、乃更號為黄皇室主、令立國將軍成新公孫建世子襐飾將毉往問疾。后大怒、笞鞭其旁侍御。因發病、不肯起、莽遂不復彊也。
及漢兵誅莽、燔燒未央宮、后曰「何面目以見漢家!」自投火中而死。
(『漢書』巻九十七下、孝平王皇后伝)


「黄皇室主」とは王莽の娘で平帝の皇后となった女性のことである。


最終的には火の中に飛び込んで死んだというから、自分の宮殿に火が回ってきたこの時の事であるのかもしれない。




なお、火といえば漢王朝の徳の象徴であるから、天命を象徴する予兆などを駆使してきた王莽やその周囲にとっては、「火がこちらを追いかけてくる」というのは我々が想像する以上に恐ろしい事態と映ったかもしれない。実際はただどんどん延焼しているだけなのだとは思うのだが。