『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その31

その30の続き。

於是莽稽首再拜、受緑韍袞冕衣裳、瑒琫瑒珌、句履、鸞路乗馬、龍旂九旒、皮弁素積、戎路乗馬、彤弓矢、盧弓矢、左建朱鉞、右建金戚、甲冑一具、秬鬯二卣、圭瓚二、九命青玉珪二、朱戸納陛。署宗官・祝官・卜官・史官、虎賁三百人、家令丞各一人、宗・祝・卜・史官皆置嗇夫、佐安漢公。在中府外第、虎賁為門衛、當出入者傅籍。自四輔・三公有事府第、皆用傳。以楚王邸為安漢公第、大繕治、通周衛。祖禰廟及寢皆為朱戸納陛。
陳崇又奏「安漢公祠祖禰、出城門、城門校尉宜將騎士從。入有門衛、出有騎士、所以重國也。」奏可。
其秋、莽以皇后有子孫瑞、通子午道。子午道從杜陵直絶南山、徑漢中。
風俗使者八人還、言天下風俗齊同、詐為郡國造歌謠、頌功徳、凡三萬言。莽奏定著令。又奏為市無二賈、官無獄訟、邑無盜賊、野無飢民、道不拾遺、男女異路之制、犯者象刑。
劉歆・陳崇等十二人皆以治明堂、宣教化、封為列侯。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


そこで王莽は緑の膝覆い、竜の縫い取りのある衣と冠、玉の刀飾り、飾りのある履、天子の四頭引きの馬車、九本の吹き流しの付いた竜の旗、鹿の皮の冠と白い下袴、四頭引きの戦車、赤い弓矢と黒い弓矢、左に朱色のまさかり、右に金のまさかり、甲冑一式、香酒二樽、玉製のひしゃく二つ、最上位を示す青い玉二つ、朱色の戸と外から見えない階段を受け取った。



宗官、祝官、卜官、史官と虎賁三百人、家令・丞各一名を置き、宗官、祝官、卜官、史官はみな嗇夫を属官とし、安漢公を助けさせた。府内の屋敷にいる時は虎賁が門番となり、出入りする者に付き従う。四輔・三公以下が府の屋敷に用事があるときは、全員割符を用いて管理する。



楚王の屋敷を安漢公の屋敷とし、大改修して全周を護衛できるようにする。王氏の廟はみな朱色の戸と見えない階段を用いる。



陳崇はまた「安漢公が祖先の祭祀を行うため城門を出る時は、城門校尉が騎士を率いて随従すべきです。城内では門番を置き、城外では騎士が従うのは、王朝を重んじるがためであります。」と上奏し、裁可された。



その年の秋、王莽は王皇后が子供を産める身体になったことを理由に子午道を作った。子午道は杜陵から南山を直進して漢中に至る。



社会風俗を視察する使者八人が帰還した。各地の風俗はどこも同じだと報告し、郡国で功績と徳を称える歌三万言が歌われていると偽った。王莽はそれを律令に記録させた。また市場では二重価格は無く、役所には冤罪は無く、村々には野盗は無く、道の落し物を拾う者は無く、男女は違う道を歩くようになり、犯罪者は実際の刑罰ではなく罪人であることがわかるようにするだけとなった、と上奏した。



劉歆・陳崇ら十二人は明堂造営に関わり、人々を教化したことを理由に列侯に封じられた。




あの「九錫」である。

これ以降の時代、曹操など多くの者が受け取り、王莽と同じように皇帝への道を歩んでいったアレである。





また、「子午道」も三国志の時代などにも出てくるあの「子午道」である。

魏延がここを通ってを急襲しようと提案したアレである。