『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その32

その31の続き。


莽既致太平、北化匈奴、東致海外、南懐黄支、唯西方未有加。乃遣中郎將平憲等多持金幣誘塞外羌、使獻地、願内屬。
憲等奏言「羌豪良願等種、人口可萬二千人、願為内臣、獻鮮水海、允谷鹽池、平地美草皆予漢民、自居險阻處為藩蔽。問良願降意、對曰『太皇太后聖明、安漢公至仁、天下太平、五穀成孰、或禾長丈餘、或一粟三米、或不種自生、或蠒不蠶自成、甘露從天下、醴泉自地出、鳳皇來儀、神爵降集。從四歳以來、羌人無所疾苦、故思樂内屬。』宜以時處業、置屬國領護。」
事下莽、莽復奏曰「太后秉統數年、恩澤洋溢、和氣四塞、絶域殊俗、靡不慕義。越裳氏重譯獻白雉、黄支自三萬里貢生犀、東夷王度大海奉國珍、匈奴單于順制作、去二名、今西域良願等復舉地為臣妾、昔唐堯膻被四表、亦亡以加之。今謹案已有東海、南海、北海郡、未有西海郡。請受良願等所獻地為西海郡。臣又聞聖王序天文、定地理、因山川民俗以制州界。漢家地廣二帝三王、凡十二州、州名及界多不應經。堯典十有二州界、後定為九州。漢家廓地遼遠、州牧行部、遠者三萬餘里、不可為九。謹以經義正十二州名分界、以應正始。」奏可。
又筯法五十條、犯者徙之西海。徙者以千萬數、民始怨矣。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽は既に太平の世をもたらし、北は匈奴を教化し、東は海の向こうの国が来訪し、南は黄支国を手なずけたが、西方だけは何もなかった。そこで中郎将平憲らに多くの金品を持たせて塞外の羌族を誘い、土地を献上し内地に属することを願い出るようにさせた。



平憲らは上奏した。「羌族の良願ら、人口一万二千人ばかりの種族が内地で臣従することを願い、鮮水海、允谷塩池を献上し、平地や良い草原をどれも漢の民に与えて自分たちは険しい山に住んで漢の藩屏になることを願っています。良願に降伏した理由を尋ねたところ、「太皇太后は神聖にして賢明、安漢公は最高の仁の心の持ち主であり、天下泰平、五穀はみな実り、一丈以上の長さの稲や一つの籾から三つの実が取れたり、種を蒔かずに生えてきたりといったことがあり、また蚕がいなくても繭が出来たり、甘露が天から降りたり、甘い味の泉が湧き出したり、鳳凰が現われたり、神の雀が集まって来たりといったことがありました。この四年、羌たちも苦しむことはなかったので、内地に所属したいと思うようになったのです」と答えました。彼らに時期に応じた仕事を与え、属国を置いて彼らを支配するようにすべきです」



その件は王莽に下げ渡され、王莽は上奏した。「太皇太后が政治を執るようになって数年、恩沢は広くいきわたり、和やかな雰囲気が四方を取り囲んでいるので、遠く離れて習俗も違う地でさえも、その義を慕わない者がないのです。越裳氏は通訳を何重にもして白い雉を献上に訪れ、黄支国は三万里を超えて犀を献上し、東夷の王は海を超えて珍しい宝物を献上し、匈奴単于は漢の制度に従い、二文字の名を改めました。今、良願らは土地を献上して臣下となることを願い出ました。堯が四方に徳をいきわたらせたことですら、これ以上ということはありません。今、謹んで考えますに、東海、南海、北海郡はありますが、西海郡はありません。良願らの地を受け取って、そこを西海郡とするよう願います。また、私が聞いたところでは、聖王は天文を整理し、地理を定めるとき、山や川を州の境界としました。漢王朝の支配地は舜・堯・夏・殷・周といった二帝三王の時代より広く、全部で十二州となっておりますが、州の名前や境界は経書に合致しません。『書経』の堯典では十二州ありましたが、のちに九州と定められました。漢は広大で州内の巡回で三万里を行くこともあり、九に分けるわけにはまいりません。経典の内容に合わせて十二州の中身を正して名前や境界を改めたいと思います。」その内容は裁可された。



合わせて法律を五十条あまり増やし、その犯罪者をみな西海郡へ強制移住させ、一千万人にも及んだので、民は始めて王莽を恨むようになった。



黄支国は日南の更に南にあるそうだ。『漢書』平帝紀によると元始二年に犀を献上したとされている。




確かに前漢において東海郡・北海郡・南海郡はあって西海郡は無い。


王莽は「東海郡・北海郡・南海郡はあって西海郡は無いって」と取り乱すタイプに思える(偏見)ので、これはチャンスだと思ったのかもしれない。





最後に「西海郡への強制移住(西海郡の人口を増やして郡として定着させるためだろう)が王莽への反感を生んだ」という雲行きが怪しくなったことを予感させる一文が入るのがポイント。