武宣卞皇后、瑯邪開陽人、文帝母也。本倡家、年二十、太祖於譙納后為妾。
後隨太祖至洛。及董卓為亂、太祖微服東出避難。袁術傳太祖凶問、時太祖左右至洛者皆欲歸、后止之曰「曹君吉凶未可知、今日還家、明日若在、何面目復相見也?正使禍至、共死何苦!」遂從后言。太祖聞而善之。
(『三国志』巻五、武宣卞皇后伝)
彼女は最初側室の一人であったわけだが、どうやら先日来記事にしてきた曹操の董卓からの逃亡の時に洛陽にいたらしい。
普通に考えたら曹操が指名手配され、後には反乱を起こして(おそらく)一族郎党全員逮捕ということになったのに卞氏がその後もピンピンしているのはちと不思議である。
だがこれはやはり「袁術が曹操の凶報を伝えた」というのがカギなのだろう。
つまり、曹操が逃げている間、卞氏らは袁術の庇護下にあったのではないかということだ。
これは(史書からはほとんど抹消された)袁術と曹操の親交に基づくものなのかもしれないし、袁紹・袁術と曹操が反董卓のため共謀し、曹操がまず反旗を翻すという計画であったために卞氏らが人質となり、同時に袁術が守るということだったのかもしれない。
いずれにしろ、南陽へ脱出するまでは袁紹・曹操と違って董卓と険悪ではなかったらしい袁術が卞氏を保護していたとしたら、あの時期の洛陽にいた卞氏がその後もずっとピンピンしていたことが説明付くと言えるだろう。