曹氏の行く末

先日の事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180513/1526137383)についてもうちょっと考えてみた。


董卓購募求(袁)紹。時侍中周珌・城門校尉伍瓊為卓所信待、瓊等陰為紹説卓曰「夫廢立大事、非常人所及。袁紹不達大體、恐懼出奔、非有它志。今急購之、埶必為變。袁氏樹恩四世、門生故吏徧於天下、若收豪傑以聚徒衆、英雄因之而起、則山東非公之有也。不如赦之、拜一郡守、紹喜於免罪、必無患矣。」卓以為然、乃遣授紹勃海太守、封邟郷侯。紹猶稱兼司隸
初平元年、紹遂以勃海起兵、與從弟後將軍術・冀州牧韓馥・豫州刺史孔伷・兗州刺史劉岱・陳留太守張邈・廣陵太守張超・河内太守王匡・山陽太守袁遺・東郡太守橋瑁・濟北相鮑信等同時倶起、衆各數萬、以討卓為名。紹與王匡屯河内、伷屯潁川、馥屯鄴、餘軍咸屯酸棗、約盟、遙推紹為盟主。紹自號車騎將軍、領司隸校尉。
董卓聞紹起山東、乃誅紹叔父隗及宗族在京師者、盡滅之。
【注】
獻帝春秋曰、「太傅袁隗、太僕袁基、術之母兄、卓使司隸宣璠盡口收之、母及姉妹嬰孩以上五十餘人下獄死。」卓別傳曰「悉埋青城門外東都門内、而加書焉。又恐有盜取者、復以屍送郿藏之。」
(『後漢書』列伝第六十四上、袁紹伝上)


袁紹董卓の元を去ったが董卓は変を恐れて太守の地位を与えて懐柔しようとした。


しかしそれでもなお袁紹が挙兵したため、董卓袁紹の叔父その他の親族で都(洛陽)にいた者を全て捕えて殺したのだという。




袁紹が首魁であった事から袁紹の親族への処遇も余計に厳しかったという事はあるのだろうが、この挙兵に参加した諸将は董卓から見ればみな反乱者であるから、その親族たちもおそらくは袁紹の親族と似たような扱いを受けたのではなかろうか。




そして、その中には曹操の親族で洛陽にいた者も含まれていた可能性は高いだろう。





曹操に上の世代の協力者が史書上あまり見えないというのは、この一件で多くが死滅してしまったからではなかろうか。



曹氏の協力者がみな比較的若く出仕前で洛陽にいなかった者やグレていて地方をうろついていた者、疎開していた者などであるのは、そういう事情の結果なのかもしれない。