反乱者の親族の末路

(翟)義遂與東郡都尉劉宇・嚴郷侯劉信・信弟武平侯劉璜結謀。及東郡王孫慶素有勇略、以明兵法、徴在京師、義乃詐移書以重罪傳逮慶。於是以九月都試日斬觀令、因勒其車騎材官士、募郡中勇敢、部署將帥。
嚴郷侯信者、東平王雲子也。雲誅死、信兄開明嗣為王、薨、無子、而信子匡復立為王、故義舉兵并東平、立信為天子。
義自號大司馬柱天大將軍、以東平王傅蘇隆為丞相、中尉皋丹為御史大夫、移檄郡國、言莽鴆殺孝平皇帝、矯攝尊號、今天子已立、共行天罰。郡國皆震、比至山陽、衆十餘萬。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)

漢の平帝死亡後、王莽が事実上天下の主として振る舞っていた時のこと。



かつての丞相翟方進の子である翟義は、東平王の父親である厳郷侯劉信らと共謀して王莽打倒の兵を挙げた。



彼らは王莽が平帝を暗殺したのだと主張し、独自に皇帝を立てて最終的には十万以上の人を集めるに至った。




諸將東至陳留菑、與義會戰、破之、斬劉璜首。
莽大喜、復下詔曰・・・(中略)・・・已捕斬斷信二子穀郷侯章・徳廣侯鮪・義母練・兄宣・親屬二十四人皆磔暴于長安都市四通之衢。當其斬時、觀者重疊、 天氣和清、可謂當矣。・・・(後略)・・・
(『漢書』巻八十四、翟義伝)


王莽ら体制側の反撃で反乱軍が敗れた時(まだ壊滅はしていない)に王莽が下した命の中で、このようなことが書かれている。




「既に劉信の子二人、翟義の母、兄、親族二十四人は皆処刑したで。観客もたくさんいて良い処刑日和やったで」




始、義兄宣居長安、先義未發、家數有怪、夜聞哭聲、聽之不知所在。宣教授諸生滿堂、有狗從外入、齧其中庭羣鴈數十、比驚救之、已皆斷頭。狗走出門、求不知處。宣大惡之、謂後母曰「東郡太守文仲素俶儻、今數有惡怪、恐有妄為而大禍至也。大夫人可歸、為棄去宣家者以避害。」 母不肯去、後數月敗。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)


この翟義の母と兄については、このような話も残っている。


翟義の挙兵前、長安にあった翟義の兄の家では謎の鳴き声が夜な夜な聞こえてきたり、犬が乱入して家の雁の頭を食い散らかし、しかも犬は姿を消してしまった、といった奇怪な事件が起こっていた。


そこで兄は母に「弟は我々に執着しないでなにかやらかしそうなので、お母様は早くここを去って難を逃れた方が良いでしょう」と申し出たが、母はそうしなかったという。




翟義の母は長安から逃げなかったために翟義が反乱するとすぐさま逮捕されたのであろう。





反乱者の家族、親族たちは反乱に連座して捕まり、首謀者の戦死あるいは捕縛に先立って処刑されてしまうことすらあった、ということになるのだろう*1







この記事は昨日の記事などで述べてきた「郷里などにいた曹操の親族たちが曹操反乱でどうなったか」を想像する上での参考資料と思っていただいて結構である。

*1:もっともこの件は割とエキセントリック少年ボウイな王莽の時のことなので、他の時代、他の事件でそのまま全て適応できるかというと怪しいところはある。