曹操、死ぬ(誤)

武宣卞皇后、瑯邪開陽人、文帝母也。本倡家、年二十、太祖於譙納后為妾。
後隨太祖至洛。及董卓為亂、太祖微服東出避難。袁術傳太祖凶問、時太祖左右至洛者皆欲歸、后止之曰「曹君吉凶未可知、今日還家、明日若在、何面目復相見也?正使禍至、共死何苦!」遂從后言。太祖聞而善之。
(『三国志』巻五、武宣卞皇后伝)

昨日の記事でも引用した部分であるが、ここで注目すべきことに「曹操の逃亡中に曹操死亡という(誤)報が流れた」ということがある。




良く考えてみると、曹操はすぐバレバレになったとはいえ偽名まで名乗って逃亡を始めており、いつ誰がどうして死亡認定したのか、という点が疑問ではないか。



噂などと言うのはそんなものだ、などというのが結論かもしれないが、おそらくはまだ董卓に従順であったと思われる、即ち政府と良好な関係にあった袁術も踊らされているのだ。



政府筋からの情報としての「曹操死亡」だったのではないか。







では、その誤報はどこから生まれたのか?

魏略曰、(曹)真本姓秦、養曹氏。或云其父伯南夙與太祖善。興平末、袁術部黨與太祖攻劫、太祖出、為寇所追、走入秦氏、伯南開門受之。寇問太祖所在、答云「我是也。」遂害之。由此太祖思其功、故變其姓。
魏書曰、邵以忠篤有才智、為太祖所親信。初平中、太祖興義兵、邵募徒衆、從太祖周旋。時豫州刺史黄琬欲害太祖、太祖避之而邵獨遇害。
(『三国志』巻九、曹真伝注)


「曹真の父は追われる曹操の身代わりとなり、「自分が曹操だ」と名乗って殺された」




あっ・・・。




この『魏略』のエピソードは明らかに時期やシチュエーションが今回の件にそぐわないが、『魏書』の方ではシチュエーション的には今回の事件にほぼ合致している。



『魏書』の発生時期と『魏略』のイベント内容をフュージョンさせたら、曹操逃避行の際に死亡認定されたことが理解できるようになるではないか。






自ら曹操と名乗って官憲の追っ手に殺された曹真の父。



官憲は一度は彼を曹操と信じたのではないか。



そして「曹操の首を取った」という第一報が中央に届けられ、袁術卞氏のその報に接したのではないか。



それなら、袁術のニュースソースも含めて色々な疑問点が解決するではないか。







まあもっともこれは記事内で矛盾する内容を繋ぎ合わせてみないと成立しないことなので、「そうだったら面白いね」を超えることはないんだけどね・・・。