不韋県の由来

華陽國志曰「孝武置不韋縣、徙南越相呂嘉子孫宗族居之、因名不韋、以章其先人之惡。」
(『続漢書』志第二十三、郡国志五、益州、永昌郡、注引『華陽国志』)

孫盛蜀世譜曰、初、秦徙呂不韋子弟宗族於蜀漢。漢武帝時、開西南夷、置郡縣、徙呂氏以充之、因曰不韋縣。
(『三国志』巻四十三、呂凱伝注引『蜀世譜』)




益州の奥の方、永昌郡にある「不韋県」の成り立ちと名前の由来については、二つの微妙に違う説があったようだ。





一つには、漢の武帝が南越の丞相(事実上南越のトップ。最後は漢に討たれた)である呂嘉の一族を強制移住させ、その集落に彼らの先人の悪事を明らかにするという意図から「不韋」と名付けたという説。



つまり不韋県の呂氏は直接的には南越の呂嘉一族の子孫であるが、その血縁には呂不韋がいたのだ、ということになる。





もう一つの説では、まず秦の時に失脚して死んだ呂不韋の遺された一族を蜀に強制移住させていたが、漢の武帝の時に永昌方面を開拓植民した際、蜀に移住させられていた呂氏を更に永昌に移住させ、その集落を先祖の名を取って「不韋」と名付けたという。



つまり不韋県の呂氏の直接の祖が呂不韋であるということになる。






この二説は似ているようで割と違っているが、蜀に移された呂不韋の一族(呂不韋とその一族が蜀に移されるというのは『史記呂不韋列伝に見える)と、南越の呂嘉の一族と、両方を同じ先祖という理由で一緒の集落に叩き込んで共通の祖先の名を取って「不韋」と名付けた、という両取りも考えられなくもないか。