韋氏の分流

韋彪字孟達、扶風平陵人也。高祖賢、宣帝時為丞相。祖賞、哀帝時為大司馬。
・・・(中略)・・・
族子義。義字季節。高祖父玄成、元帝時為丞相。初、彪獨徙扶風、故義猶為京兆杜陵人焉。
(『後漢書』列伝第十六、韋彪伝)


後漢における三輔の韋氏は前漢の丞相韋賢、韋玄成親子の一族である。




そのうち、韋彪は右扶風平陵へ転居したという。



初、(韋)賢以昭帝時徙平陵、玄成別徙杜陵、病且死、因使者自白曰「不勝父子恩、願乞骸骨、歸葬父墓。」上許焉。
(『漢書』巻七十三、韋玄成伝)

だが、この平陵というのは昭帝の陵県(皇帝陵の側に当時の高官や資産家を移住させて作った県)であり、韋氏の祖といえる韋賢はこの平陵県に移住していたというのだ。



そして、宣帝の時になって活躍した韋玄成が韋賢の子孫たちとは別に宣帝の陵県である杜陵に移住したのだという。






となると、右扶風平陵県出身である韋彪というのは、韋賢の平陵県移住以後、そのまま平陵県に定住していた韋氏の子孫であり、京兆尹杜陵県出身である韋義は、杜陵県への移住を命じられた韋玄成の子孫であるということになる。




韋賢の子は、韋玄成とそれ以外とで出身県が変わっていたのである。







(韋)康字元將、京兆人。父端、從涼州牧徴為太僕、康代為涼州刺史、時人榮之。後為馬超所圍、堅守歴時、救軍不至、遂為超所殺。
(『後漢書』列伝第六十、荀紣伝注)


そして、後漢末の韋端・韋康は「京兆の人」となっているから、彼らは京兆尹杜陵県を本貫とする韋玄成の直系子孫の韋氏である可能性が高そうだ。