『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その9

その8(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/01/000100)の続き。






四年、遷大將軍、加大都督・假黃鉞、與曹真伐蜀。帝自西城斫山開道、水陸並進、泝沔而上、至於朐䏰、拔其新豐縣。軍次丹口、遇雨、班師。
明年、諸葛亮寇天水、圍將軍賈嗣・魏平於祁山。
天子曰「西方有事、非君莫可付者。」乃使帝西屯長安、都督雍・梁二州諸軍事、統車騎將軍張郃・後將軍費曜・征蜀護軍戴淩・雍州刺史郭淮等討亮。
張郃勸帝分軍住雍・郿為後鎮、帝曰「料前軍獨能當之者、將軍言是也。若不能當、而分為前後、此楚之三軍所以為黥布禽也。」遂進軍隃麋。亮聞大軍且至、乃自帥衆將芟上邽之麥。諸將皆懼、帝曰「亮慮多決少、必安營自固、然後芟麥、吾得二日兼行足矣。」於是卷甲晨夜赴之、亮望塵而遁。帝曰「吾倍道疲勞、此曉兵者之所貪也。亮不敢據渭水、此易與耳。」進次漢陽、與亮相遇、帝列陣以待之。使將牛金輕騎餌之、兵才接而亮退、追至祁山。亮屯鹵城、據南北二山、斷水為重圍。帝攻拔其圍、亮宵遁、追撃破之、俘斬萬計。天子使使者勞軍、增封邑。
時軍師杜襲・督軍薛悌皆言明年麥熟、亮必為寇、隴右無穀、宜及冬豫運。帝曰「亮再出祁山、一攻陳倉、挫衄而反。縱其後出、不復攻城、當求野戰、必在隴東、不在西也。亮毎以糧少為恨、歸必積穀、以吾料之、非三稔不能動矣。」於是表徙冀州農夫佃上邽、興京兆・天水・南安監冶。
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿諸葛亮と戦う。



諸葛亮孟達が破れた年(太和2年)には魏の涼州・三輔への侵攻を始めていたが、そちらは主に曹真の領分であった。



その後、太和4年に曹真が大司馬となり、空いた大将軍が司馬懿に回ってきて、この両名による征蜀が開始される。しかし翌年には曹真が死に、諸葛亮の来寇を抑えるのは司馬懿の役割となったのであった。




諸葛亮撃退後、司馬懿が上邽に冀州の農夫を移住させた、というのは注目に値するのではないか。



これまで、後漢以来人が減る一方(というか異民族来寇と強制移住で減らされる一方)だったであろう涼州・雍州方面に、冀州から人を持ってきたのである。一大転換ではないか。


涼州を荒廃させるばかりだったこれまでの戦乱と曹氏の対応が諸葛亮の付け入るスキを作っていた、という分析があったのかもしれない。




司馬懿涼州・三輔の復興に力を入れたように思われるのである。