皇帝殺害説

(建安)二十五年、魏文帝稱尊號、改年曰黄初。或傳聞漢帝見害、先主乃發喪制服、追諡曰孝愍皇帝。
(『三国志』巻三十二、先主伝)


蜀漢の先主すなわち劉備は、魏の文帝曹丕が漢の皇帝より皇帝(献帝)の位を譲られ、そして漢の皇帝は殺害されたという報に接し、皇帝のために喪に服し諡号を贈った。





だがご存じの通りこの時漢の献帝は死んではいなかった。




では、劉備はそういった報など無かったのにでっちあげたのか?





初、(蘇)則在金城、聞漢帝禪位、以為崩也、乃發喪。後聞其在、自以不審、意頗默然。臨菑侯植自傷失先帝意、亦怨激而哭。
(『三国志』巻十六、蘇則伝注引『魏略』)

後漢末に金城太守となっていた蘇則は、漢の皇帝が帝位を譲ったと聞くと、皇帝が亡くなったと思い喪に服したという。





禅譲の儀式の中に「先帝を殺す」みたいなものは無いようなので、譲位そのものが皇帝殺害を示唆しているわけではない。



これはつまり「譲位後に密かに殺されたのだ」という風聞があったことを示しているのではなかろうか。




これは劉備らが接した報と同じような内容であったのではないかと思う。



劉備がその報を自分の即位に利用したことも事実だが、そういった情報が曹丕の支配圏でも流れていたらしい事ももまた見逃してはいけないのではないかと思う。






禅譲ではなかったが、董卓が少帝劉弁から皇帝の地位を剥奪した後、その劉弁がどうなったのか、ということは当時の人間なら大抵知っていただろう。


同じようなことが起きたに違いない、と考えたとしても無理からぬことである。