曹植、服喪の理由

昨日の記事に沿って考えるなら、曹操夏侯惇らの重臣に対して、「自分は周の文王であり、息子が武王となるのであるから、殷の紂王たる漢の天子はいずれ紂王のように攻め滅ぼすことになるだろう」という主旨の発言をしたのだ、ということになる。



少なくとも、そう解釈しても突飛な話ではないだろう。周の武王が殷の紂王を攻め紂王は死んだというのはある程度の教養があれば知っている話だったはずだ。



初、(蘇)則在金城、聞漢帝禪位、以為崩也、乃發喪。後聞其在、自以不審、意頗默然。臨菑侯植自傷失先帝意、亦怨激而哭。
(『三国志』巻十六、蘇則伝注引『魏略』)

そうすると、この蘇則と曹植が漢の皇帝の退位を知って喪に服すような態度を取ったという話というのは、「曹操の発言通りに曹丕が「当時の天子を攻め滅ぼす」という周の武王ムーブを行ったと理解した」ということになるのではないか。



「平和裏に禅譲したのに早速殺された」と早合点するのであれば、曹丕がとんでもない非情無道の君主だと思っていたことになるが、「魏武王の言っていた通り周の武王を全力で遂行したのだ」と考えたのだとすれば、曹丕を特別非情と思っていたわけではなく、父の言う通りにした結果として漢の皇帝は死ぬんだ、と理解していたということになる。




どちらと思ったかによって、蘇則や曹植曹丕に対する姿勢・人物理解が変わってくるのである。



曹植が実は曹丕と言うほど関係が悪くないのではないかと思える点などを考慮すると、個人的には後者の方が納得いく気がする。