『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/25/000100)の続き。





從討張魯、言於魏武曰「劉備以詐力虜劉璋、蜀人未附而遠爭江陵、此機不可失也。今若曜威漢中、益州震動、進兵臨之、勢必瓦解。因此之勢、易為功力。聖人不能違時、亦不失時矣。」魏武曰「人苦無足、既得隴右、復欲得蜀!」言竟不從。
既而從討孫權、破之。軍還、權遣使乞降、上表稱臣、陳説天命。魏武帝曰「此兒欲踞吾著爐炭上邪!」答曰「漢運垂終、殿下十分天下而有其九、以服事之。權之稱臣、天人之意也。虞・夏・殷・周不以謙讓者、畏天知命也。」
魏國既建、遷太子中庶子。毎與大謀、輒有奇策、為太子所信重、與陳羣・呉質・朱鑠號曰四友。
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿、漢中を得た魏武に対し、このまま蜀の方へ進撃する事を建言。


(劉)曄進曰「明公以歩卒五千、將誅董卓、北破袁紹、南征劉表、九州百郡、十并其八、威震天下、勢慴海外。今舉漢中、蜀人望風、破膽失守、推此而前、蜀可傳檄而定。劉備、人傑也、有度而遲、得蜀日淺、蜀人未恃也。今破漢中、蜀人震恐、其勢自傾。以公之神明、因其傾而壓之、無不克也。若小緩之、諸葛亮明於治而為相、關羽・張飛勇冠三軍而為將、蜀民既定、據險守要、則不可犯矣。今不取、必為後憂。」太祖不從、大軍遂還。
【注】
傅子曰、居七日、蜀降者説「蜀中一日數十驚、備雖斬之而不能安也。」太祖延問曄曰「今尚可撃不?」曄曰「今已小定、未可撃也。」
(『三国志』巻十四、劉曄伝)

このあたりの話は劉曄の話とほとんど被っており、司馬懿のは借りパク状態だったとしてもおかしくはない。ただ、劉曄司馬懿も同じような考えを持っていたのだとしても、それはそれでおかしくはないだろう。




孫権が臣従し、魏武に対して天命を説く。つまり天は魏武が魏武となる事を望んでいる、早く皇帝におなりなさい、と勧めたという事だ。魏武は「いろりの上に座らせようとしとる」と拒絶の意思を示した。ただ、「炎上してまうやろ」という懸念であって、「漢の皇帝をないがしろにしてけしからん」という怒りや畏れでは無い事には注意すべきだろう。


それに対して司馬懿は、孫権臣従で天下の十分の九を有したのだから、これは天の意思である。遠慮すべきでない、と即位を勧めたとされる。


三国志武帝紀の該当部分の注にある『魏略』『魏氏春秋』では陳群、桓階や夏侯惇が同趣旨の事を述べたとされる。これも、司馬懿の発言は彼らの言葉に乗っかって作られた可能性もあるだろうが、司馬懿も陳群らと同じ考えだったとしても別に矛盾はしない。特に陳群と司馬懿は同じ「四友」でもあるので、一緒に進言していた可能性だってあるだろう。




『晋書』宣帝紀の記事によれば司馬懿は漢魏革命に積極的だったことになる。ただ、先ほども書いているように、他にも何人もの高官が勧めている状態なので、司馬懿が珍しかったとか、特に漢の皇帝に薄情だったとかいった事でもないだろう。


魏武の方にも「漢の皇帝を何が何でも盛り立てよう」「革命などもってのほか」といった強い意志があったわけでも無さそうなので、このあたりは戦略的見地からの意見の相違か、あるいは魏武の気持ちの問題なのだと思われる。