シュレジンガーの劉協

章武二年、追諡皇思夫人、遷葬於蜀、未至而先主殂隕。丞相(諸葛)亮上言「・・・(中略)・・・孝愍皇帝亦改葬其母王夫人、尊號曰靈懷皇后。今皇思夫人宜有尊號、以慰寒泉之思、輒與恭等案諡法、宜曰昭烈皇后。詩曰『穀則異室、死則同穴。』故昭烈皇后宜與大行皇帝合葬、臣請太尉告宗廟、布露天下、具禮儀別奏。」制曰可。
(『三国志』巻三十四、先主甘皇后伝)


蜀漢において、いわゆる献帝である劉協には劉備即位時に「孝愍皇帝」の諡号を贈られた。


上記の話は劉備死去直後であり、それからある程度経っていて献帝が死んでいないかもしれないという情報は掴んでいるとは思うのだが、どうやら蜀漢では献帝は死んでいるという公式見解に修正は加えられていなかったらしい。



蜀漢からすれば、劉協は魏の内部を実際に観測するまでは生きているか死んでいるか分からない、半分生きていて半分死んでいる存在になっていたのかもしれない。