『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その44

その43(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/20/000100)の続き。





三月、改元延康。
冬十月乙卯、皇帝遜位、魏王丕稱天子。
奉帝為山陽公、邑一萬戸、位在諸侯王上、奏事不稱臣、受詔不拜、以天子車服郊祀天地・宗廟・祖・臘皆如漢制、都山陽之濁鹿城。四皇子封王者、皆降為列侯。
明年、劉備稱帝于蜀、孫權亦自王於呉、於是天下遂三分矣。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安25年は3月から「延康」と改元された。



魏王国と丞相の代替わりが関係はしていそうだが、「新たな魏王・丞相を祝して」みたいな意味合いなのか、「アイツが消えた事を記念して」みたいな意味合いなのか、はっきりは言えない。当時の漢王朝の状況を考えると前者のようにも思えるが、代替わりを機に、いわば「マウントを取る」目的で献帝主導で改元した、という線も無くはないようにも思える。



ただ、どちらにしてもこの年の10月には献帝は帝位を魏王・丞相の曹丕へと禅譲し、漢の皇帝から山陽公という諸侯に格下げとなったのであった。



ここまでの曹操を巡るあれこれを見ていれば、曹操の時から献帝から帝位を譲るという形で魏が新たな王朝を立てる事は既定路線だったようにしか思えない。これまでは、孫権劉備も敵対的で、揚・荊・益の3州が離反したまま、という状況で、常に戦もあった事から、禅譲するだけの大義名分も、時間的余裕も、どちらもなかったのではなかろうか。


関羽が死に荊州孫権のものとなり、その孫権が一応は曹氏に臣従するようになっていた事から、やっと態勢が整ったのだろう。この時なら、揚州も荊州も曹氏が下したと言えるではないか。



禅譲とかの詳しい事は省く。




「位在諸侯王上」という事は、事実上は朝廷において皇帝の次に尊貴な地位とされたという事であるし、「臣と称せず」というのは、皇帝に対する上奏文などでは普通はどんな高官でも自らを「臣」と卑下して自称しなければいけないところ、元皇帝家である山陽公だけは言わなくてもよい、臣下扱いしない、という事である。



一応は、それまでの皇帝の家という事で尊重する態度を示していると言えよう。




ちなみに曹操の娘である献帝の皇后はそのまま「山陽公夫人」となった。漢の列侯らの正妻は「夫人」と称するので、この曹氏も正妻だと思われる。