張良の容貌と年齢について

太史公曰、學者多言無鬼神、然言有物。至如留侯所見老父予書、亦可怪矣。高祖離困者數矣、而留侯常有功力焉、豈可謂非天乎?上曰「夫運籌筴帷帳之中、決勝千里外、吾不如子房。」余以為其人計魁梧奇偉、至見其圖、状貌如婦人好女。蓋孔子曰「以貌取人、失之子羽。」留侯亦云。
(『史記』巻五十五、留侯世家)

かの漢の三傑と呼ばれた高祖の臣、張良



彼の容貌は「婦人好女の如し」つまり見目麗しい女性のようであった、と伝えられていたらしい。




留侯張良者、其先韓人也。大父開地、相韓昭侯・宣惠王・襄哀王。父平、相釐王・悼惠王。悼惠王二十三年、平卒。卒二十歳、秦滅韓。良年少、未宦事韓。韓破、良家僮三百人、弟死不葬、悉以家財求客刺秦王、為韓報仇、以大父・父五世相韓故。
(『史記』巻五十五、留侯世家)


さて、張良の年齢であるが、ここからわかることが幾つかある。



まず、父が死んで20年後に彼らの故国である韓が秦に滅ぼされた、ということである。



始皇帝(秦王政)17年(紀元前221年)に韓王は捕虜となり領土が秦に併合された。



ということはこの年よりも20年前には張良は生まれていたことになる。



滅亡時点で「年少」と言われていることからすると、そこから大きく年齢が上回ることはないにしても、滅亡時に20代以上にはなっていたと見るべきだろう。




始皇帝が死ぬのは始皇帝37年(紀元前210年)であるから、この時にどんなに若く見積もっても40歳は下らないことになる。




一応、仮にこの時40歳とすると、漢の高祖元年(紀元前206年)で44歳。



高祖が項羽を討ち皇帝になった高祖5年(紀元前202年)で48歳。



高祖が死亡する高祖12年(紀元前195年)で55歳。





高祖死亡時の年齢は62歳説と53歳説があり、53歳説を取ると張良より年下ということになるし、62歳説でもほとんど同年代ということになる。


しかもこれは父の死亡年前後に誕生した、という最も若くなるよう仮定した年齢であることに注意すべきである。


実際はもっと年長であっても不思議ではないという事だ。





つまり、張良始皇帝暗殺未遂事件そして高祖劉邦との出会いといった形で世に出たのは壮年期以降であり、高祖の元で働いていた時にはもはや老年期が近づいていた、ということなのである。






と、こうして見ていくと、高祖の元にあった時期の張良は「初老(下手すると老年期の)年齢の」「見目麗しい婦人のような外見」であった、ということになる。




現代の芸能人で言うと池畑慎之介☆*1(元ピーター)さんとか、あるいは少々年齢が上になるが美輪明宏さん、美川憲一さんといったあたりのイメージが比較的近いのではないだろうか*2




*1:知ったばかりだが今は「☆」が入るのが正しいらしい。

*2:京本政樹さんを入れていないのは別に悪意とかじゃなくてその方が面白そうだからなんだからね!