『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その17

その16(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181117/1542381616)の続き。





春二月、沛公過高陽。酈食其為里監門、年六十餘、縣中謂之狂生、乃求見沛公。沛公方踞床、令両女子洗足、食其長揖不拜、曰足下必欲舉義兵、誅無道秦、不宜距見長者。沛公輟洗謝之。食其進計曰、天下之郡、陳留當衝、四通五達之郊也、又多積粟。臣請使其令下公、即不聽、舉兵攻之、臣為内應、破陳必矣。於是沛公引兵隨而攻之、遂取陳留。號食其為廣野君。食其言弟商以為將軍。時商聚黨數千人、以兵屬焉。
夏六月、沛公攻宛。韓王使張良從。南陽太守呂齮保城不下、沛公欲遂西。張良曰、彊秦在前、宛兵在後。此危道也。乃圍宛。宛急、南陽太守呂齮擬自殺。其舍人陳恢、逾城出見沛公曰、宛吏懼死、皆堅守。足下盡力攻之、死傷者必衆。引兵西去、宛必隨之。足下前則失咸陽之約、後有彊宛之患。不如降之、封其守、引其甲卒而西。北城未下者、必開門而待足下矣。沛公曰善。
秋七月、封南陽太守齮為殷侯、封陳恢為千戸侯。引兵而西、無不下者。軍所過不虜掠、秦民喜。
章邯遂降項羽、盟于殷墟之上。立邯為雍王、置軍中。長史欣為上將、將秦降卒前行。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第一)

酈食其登場。そして劉邦は陳留から宛と進撃。



それにしても酈食其は単なる弁士ではなく、「説得できなくても内応して破ってみせましょう」と言うあたり、なかなか武闘派である。



また、劉邦がここで南陽太守らを侯にした、とされているのが目を引く。勝手にやっただけなのか、それとも何らかの権限があったのか、あるいは楚王にそれを求めたという事なのか。


ともあれ、劉邦は秦本国へ行くルートの一つ、武関の前まで来た、と言う事になる。




一方で項羽は章邯の降伏を受け入れる。これで項羽が秦に攻め上るのを阻む者はいないも同然である。