その52(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/10/000100)の続き。
封蕭何為酇侯、父母兄弟封侯食邑者十餘人、以蕭何舉宗從征伐故也。
封曹參為平陽侯。
張良為留侯。
陳平為戸牖侯、後徙為曲逆侯。
周勃為絳侯。
樊噲為舞陽侯。
酈商為武成侯。食其子疥從征伐、以父故、封疥為高梁侯。
夏侯嬰為汝陰侯。
灌嬰為潁陽侯。
周昌為汾陰侯。
大功臣封者二十餘人、其餘功未得行封。上從南宮複道上、望見群臣往往聚語。上曰、此何謂也。張良曰、陛下所封皆蕭・曹故人。所誅皆平生仇讎。此屬畏不得封、又恐過失及誅。此相與謀反。上憂之曰、為之奈何。良曰、急封雍齒。雍齒上最所憎惡、群臣共知。後從征伐有功。上即封雍齒。群臣喜曰、雍齒且封、我屬無患矣。於是趨有司定功行封。
封王陵為定國侯。陵始為縣豪、上兄事之、以其從上晚、故後行封。
凡百四十有三人。是時民人散亡、居可得而數者纔十二三。是以大侯不過萬戸、小者不過五六百戸。封爵之日誓曰、使黄河如帯、太山如礪、國以永存、爰及苗裔。又申以丹書之信、重以白馬之盟。
作八十侯之位次。
陳平之始封。平辭曰、非臣之功也。上曰、吾用先生之謀、戰勝克敵、非功而何。對曰、非魏無知、安得進。上曰、若子可謂不背本矣。乃復賞無知。
張良素多疾病、乃稱疾曰、臣家五世相韓、及韓亡、不愛萬金之資、為韓報讎彊秦、天下震動。今以三寸舌為王者師、封萬戸、位為列侯。此布衣之極、於臣足矣。願棄人間事、欲從赤松子遊耳。乃學道不食穀、遂不仕。良為人容貌美麗如婦人女子。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)
王に続いて列侯たちを封建。
漢においては一応は「君主」でもある諸侯は基本的に王と列侯しかない。
大きな功績があった者たちは恩賞として土地を与えられ、列侯の爵位を貰うのである。
陳王使魏人周市略地。周市使人謂雍齒曰「豐、故梁徙也。今魏地已定者數十城。齒今下魏、魏以齒為侯守豐。不下、且屠豐。」雍齒雅不欲屬沛公、及魏招之、即反為魏守豐。沛公引兵攻豐、不能取。
(『史記』巻八、高祖本紀)
劉邦が雍歯を憎んでいたというのは、たぶん劉邦挙兵当初の苦しい時期に裏切られたという思いからなのだろう。この時の事を劉邦が文字通り一生忘れていなかった事はまた後でも出てくるかもしれない。
雍歯は別としても、この比較的早い時期に列侯に封じられている功臣は劉邦にとって腹心や幹部、あるいは特別な功労者などという所だろう。上に挙がっている以外では呂后の兄弟や、あの項伯なども同時期の封侯である。