宋義と懐王の大戦略

楚兵已破於定陶、懐王恐、從盱台之彭城、并項羽・呂臣軍自將之。以呂臣為司徒、以其父呂青為令尹。以沛公為碭郡長、封為武安侯、將碭郡兵。
初、 宋義所遇齊使者高陵君顯在楚軍、見楚王曰「宋義論武信君之軍必敗、居數日、軍果敗。兵未戰而先見敗徴、此可謂知兵矣。」王召宋義與計事而大説之、因置以為上將軍、項羽為魯公、為次將、范筯為末將、救趙。諸別將皆屬宋義、號為卿子冠軍。
(『史記』巻七、項羽本紀)

趙數請救、懐王乃以宋義為上將軍、項羽為次將、范筯為末將、北救趙。令沛公西略地入關。與諸將約、先入定關中者王之。
(『史記』巻八、高祖本紀)


http://d.hatena.ne.jp/T_S/20090219/1235054098で以前論じてみた、楚の懐王と宋義による秦打倒の策略を再度述べてみる。


まあ、再利用である。





項梁が章邯に討たれ、趙王らが包囲されるという事態に直面した楚。




趙が敗れれば次は楚も危ない。


しかし、その一方で章邯の兵というのも刑徒を転用するという秦のギリギリの大動員が元になっている状態であり、章邯が関東にいる今は秦本国に一気に攻め込むチャンスでもあった。





この時、どうやら懐王は斉との関係改善に努めていたようである。


宋義の話を斉の使者から聞いた、というところにそれが見える。



項梁の死の遠因ともいえる斉の田栄との対立の後も、使者のやりとりなどはしていたのだろう。



楚からすれば、田栄の望みを受け入れられず対立することとなったとはいえ、秦と戦っていく上では斉との関係を悪化させたままにはできないという計算があったのだろう。




その一方で、趙との関係は実は難しいものがあったと思われる。


何故なら、趙は楚王陳勝が派遣した張耳・陳余が勝手に自立した連中であり信用しにくいという点と、楚よりも秦に近いために秦を討ちその領土を占領する上でライバルになる可能性が高いという点があるからだ。




こうしてみると、この時の状況は楚にとってチャンスになりうるのだ。




まず斉との関係を改善して後顧の憂いを絶つ。



そして趙における章邯は、最終的には破る必要があるが、趙をほどほどに叩いてくれるならその方が美味しい。



章邯と趙の交戦のお蔭でどちらも積極的に動けないこの時こそ、楚が打って出て秦まで攻め込み、一気に秦本国まで占領するまたとない機会なのである。





宋義が懐王に語ったのは、おそらくはこういった部分の戦略だったのだろう。


そして、斉と関係がある宋義自身こそが総大将にふさわしいこと、秦本国を討つ別動隊は劉邦が良いということも、彼らの計画の中で決まったことなのだろう。





そうなると、総大将宋義は趙を救うと言う名目で出兵しているものの、「どちらも生かさず殺さずに足止めを続ける」だけで自分たちの目的は達成できるということになるだろう。




章邯を倒せるならそれに越したことはないが、一気に負けるかもしれない決戦に打って出る必要などは皆無なのだ。


秦本国が攻め込まれて章邯が退却あるいは立ち往生するのを見てから混乱に乗じて攻めればいいのである。




趙もまた秦攻めの別動隊を独自に出していたことからも分かるように、趙と楚は秦本国を攻める上ではそれぞれ独立したライバル関係なのだ。

趙を章邯の脅威から解放してしまったら、趙に大魚をかっさらわれてしまうかもしれないということだ。





この楚による秦併呑の野望の実現のため練られた戦略は、おそらく本質的には上手くいっている。


章邯は完全に出し抜かれ、劉邦は秦本国の占領に成功した。




だが、宋義と懐王の見込み違いは、兵糧がギリギリの中での長期対陣となった上に、総大将と楚王の命を真っ向から否定してクーデターまで起こす謀反人が自軍にいるとは思っていなかったことであった。





なお、この時クーデターを起こし宋義を殺した項羽は斉へ行っていた宋義の子まで殺している。


斉が懐王とは対話路線であったのに項羽に対して反抗を繰り返したのはこれが契機なのかもしれない。