『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その14

その13(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181111/1541862620)の続き。





沛公三年冬十月、齊將田都叛田榮、將兵助楚。
十有一月、楚師至于河上。項羽謂宋義曰、疾引兵渡河、我撃其外、趙應其内、破秦軍必矣。義曰、不然。今秦攻趙、戰勝則兵罷、我承其弊。不勝、則我鼓行而西、必舉秦矣。故不如鬥秦・趙。夫撃輕鋭、我不如公。坐運籌策、公不如我。因令軍中曰、猛如虎、很如羊、貪如狼、彊不可令者、皆斬。遣其子襄相齊、身送之至無鹽、飲酒高會。羽曰、將軍戮力伐秦、而久留不行、歳飢民貧、卒食半菽、軍無見糧、乃更飲酒高會、不因趙食與并撃秦、乃曰承其弊。夫以秦之彊、攻新造之趙、其勢必舉趙。趙亡而秦益彊、何弊之承。且國兵新破、王寢不安席、埽境内而屬之將軍、國家安危、在此一舉。今不卹士卒而徇私、非社稷之臣也。羽乃晨朝宋義、即入帳中、斬宋義頭以出、令軍中曰、宋義與齊王謀反、王陰令籍誅之、乃使報命於王、王以羽為大將軍。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第一)

項羽、宋義を殺すの巻。



つまりはクーデターである。




宋義を殺すまでは、まあ対秦の対策が不十分だったかもしれない大将の排除と言う事で理解できない事もないだろうが、その後に軍権をそのまま奪ってしまうあたり、弱肉強食って感じである。



宋義が斉と癒着していたかのように書かれているし、実際そういう側面があったのかもしれないが、楚が秦を攻める時には背後にあたる斉と良い関係を保った方がいいに決まっている。その関係改善を図って、実際に成功しつつあったのが宋義だったのかもしれない。