春秋の素王

應劭漢官曰「世祖中興、海内人民可得而數、裁十二三。邊陲蕭條、靡有孑遺、鄣塞破壊、亭隊絶滅。建武二十一年、始遣中郎將馬援・謁者、分築烽候、堡壁稍興、立郡縣十餘萬戸、或空置太守・令・長、招還人民。上笑曰『今邊無人而設長吏治之、難如春秋素王矣。』乃建立三營、屯田殖穀、弛刑謫徒以充實之。」
(『続漢書』志第二十三、郡国志五注引『漢官』)


光武帝が中興を成し遂げたとき、全国で把握できる人口は10分の2、3程度まで減っていて、辺境の防備も破壊されていた。
そこで馬援らを派遣して狼煙台や防壁を再建し、郡県を復興させた。また治めるべき人がいないまま太守や県令・長を置いて人々を招きよせることもあった。
光武帝は笑って「今の辺境は人がいないのに長官を置いて統治させている。「春秋の素王」のように難しいことだよ」と言った。
そこで三営*1を立て、屯田を行って穀物を増やし、刑徒の罰を緩めて辺境に住まわせたりして人口増加を図った。




「春秋の素王」というのはやはり領土も無いのに天命を受けたと思っていたというあの夢想家の事を指しているのだろうか。

*1:軍営のことだと思うが、どれをもって三営と呼ぶのかよくわからない。護羌校尉などだろうか。